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バカにつける薬はない 第二回

  三 人妻と

「あ……あの、おはよう、アディ君!」
 朝、学校へ向かう道中。道路脇の家から、アディは不意に呼びかけられた。
 テレネだ。庭に出て、花の手入れをしていたらしい。朝の冷気のせいか、少し頬が赤い。
 トラルとテレネ、二人の新居は、アディの家の近所に構えられていた。アディの通学路脇だ。大工のトラルお手製の小さな可愛い家で、庭の草木は二人の要望を聞いて、近所の人たちも手伝って用意した。料理やお菓子作りが趣味ということで、庭の一角がハーブ園になっている。
「おはようございます、テレネさん」
「アディ君、朝早いのね。えらいね」
「いえ、そんな……」
「ほんとえらいよー。私なんて、子供のころ、朝弱くてね。いっつも寝坊してあわてて学校に走っていってたんだから」
「あ、友達にいます。そういう子」
「やっぱり? そう言えば、ここの学校はどんな感じ? 披露宴した所が学校だよね? 私の元いた村だと、披露宴はいつも校庭なんだけど」
「ここもそうです。あそこが学校です」
「学校は楽しい? どんな先生なの?」
「えーと……」
 テレネは話し好きなようだった。そのままいろいろ質問されて、垣根越しに話し込む。
 ただ、話が長くなると、アディは時間が気にかかる。マーシャの家に遅れてしまう。途切れる様子がなかったので、アディは話をさえぎった。
「あの、すいません。友達待たせてて」
「あ、ごめんね、おしゃべりで。行ってらっしゃい」
 手を振って見送るテレネ。アディは急いでマーシャの家に向かう。出迎えたエリルはちょっと驚いていた。
「今日は珍しくぎりぎりなのね。どうしたの?」
「んっふっふー、寝坊しちゃダメだぞ、アディ。夜遅くまで起きてたんじゃない? はい、早く食べて行こうねー」
 今日はしっかり着替えて食事をしていたマーシャは、アディの口にシナモントーストを突っ込んだ。シナモンを吸い込んで、アディはちょっとむせた。
 マーシャは妙に上機嫌だ。
「ささっ、急がないと遅れるよっ!」
 アディの手を引っ張って家を出る。どうやらいつも自分が遅れているので、立場が逆になったのが嬉しいらしい。鼻歌混じりで歩いていく。
「でもアディが寝坊するの、ほんとに珍しいね!」
「寝坊じゃないんだよ」
「?」
「トラルさんの新居がウチのそばでさ。テレネさんと出会って、あいさつしたあとちょっと話し込んじゃって」
「あの花嫁さん? あの人いい人だよね。結婚式の時、緊張してたはずなのに、私とか他の女の子にとても優しかったんだよ。話好きみたい」
「あ、おしゃべりだって、自分で言ってた」
「やっぱり?」
 この朝は始業ぎりぎりに教室に滑り込み、先に着いていたサリルに、アディがついているのに珍しいと驚かれた。
 次の日の朝も、テレネと出会った。
「アディ君、毎日早いね。朝ご飯ちゃんと食べてるの?」
「食べてますよー」
「あ、ちょっと待ってて。パイを焼いたけど作りすぎちゃって。歩きながらでも食べてよ」
「あ、でも」
「待ってて、すぐ持ってくるから」
 朝はきちんと食べないとという母の方針で、結構しっかりした朝ごはんが出ている。もうそんなに食欲はない。マーシャの家でいろいろ持たされても、たいてい取っておいて昼に食べている。もらっても今は入らないなあと思っていた。
 ところが出てきたアップルパイはとてもおいしそうで、その思いを覆す。シナモンの香りがふんわりと鼻腔をくすぐる逸品だった。
「カシスさんの所でリンゴたくさんもらったから焼いてみたの。アップルパイは好き?」
「ええ。おいしそうですね」
「わ、ほんと? そう見える? 嬉しい! 実はアップルパイはちょっと自信あるんだよ。ね、ね、ちょっと食べてみて?」
 アディは一口かじってみた。しゃきしゃきとした甘酸っぱいリンゴと、さくさくと軽いパイ生地の舌触り。
「うん! おいしいです!」
「ほんと? よかったあ。まだリンゴあるから、また焼くね。カシスさんのリンゴ、おいしいよね。そう言えばね……」
 そこからおしゃべりが始まって、話はするすると流れ始め、またマーシャの家に着くのがぎりぎりになった。この日はカシスさんからもリンゴをもらい、マーシャの家でもまたスコーンを渡された。鞄を膨らませているアディを見て、おやつ長者だねとマーシャは笑った。
 この調子で毎朝テレネはアディと話し込んでいた。話していてとても楽しそうだし、むげにもできない。誰も知らない、生まれ育ったところとは別の村に来たばかりだから、おしゃべりする相手ができて嬉しいのかなと思うと、ことさらだ。
 ならばその分、ちょっと早めに出ればいいと考えたが、するとその時間も話し込んで、やっぱりぎりぎりとなった。
 さらに。
「アディ君、今帰るところ? ちょっとお茶していかない?」
 学校帰り、窓から顔を出したテレネに呼び止められた。
「今度はタルトを作ったんだよー」
 色鮮やかなブルーベリータルトが出てきた。
「ちょっと張り切って大きいの作っちゃった。おかわりしてねー」
 しっとりしたタルトの生地と、ブルーベリーの甘さと酸味が絶妙のバランス。テレネは確かにお菓子作りがうまかった。明るくておしゃべりも楽しい。
 けれどさすがにアディもおかしいなと思い始めた。
 朝は毎日同じ時間に通っているので、そこで、やはり同じ時間に朝の日課の庭仕事をしているテレネと出会うのは不思議じゃない。
 しかし、帰る時間は同じじゃないのだ。
 なのに次の日も、その次の日も、それからずっと毎日お茶に呼ばれた。まるでずっと道を見張っていて、アディを待ち構えているみたいだ。
 その話をアディから聞いたマーシャは、さすがにちょっとけげんな顔をした。
「毎日なの? この間私と寄り道して帰った日も?」
 その日はマーシャに袖を引かれて、例の丘の上に寄って帰った。そしてやっぱりマーシャに迫られて、何度目かのキスをした。帰るのはちょっと遅くなったのだが、それでもテレネは待っていた。
 これは絶対におかしい。
 そしてその違和感は、ついに形になった。
 やはり帰りに呼び止められて、お茶をご馳走になっていた時のこと。
 アディには、テレネの顔つきも気になっていた。いつもちょっと頬を赤く染めているように見える。
 最初は朝だけ会っていたので、朝の冷気のせいかと思っていたが、帰りに会っても同じなのだ。それに時々、潤んだ瞳でじっと見つめてくる時がある。
 そしてそんなテレネはとても艶やかだった。元々整った顔立ちの美人だが、それ以上のものをアディは感じていた。
 これは、あのマーシャの様子と同じなのでは……でもそんなはずは……自分が意識しすぎているんじゃないか……でも……。
 そんなことをぐるぐると考えていると。
「アディ君、お茶、おかわりいる?」
 ポットを持って、テレネがソファに座るアディのわきに来た。紅茶を注ぐ。前屈みになったテレネの髪がふわりと揺れ、ほんのり赤みを差す頬にかかる。ちょっと肩が触れ、アディは強ばってしまう。
 注ぎ終わったポットをことりと置き、テレネはアディを見上げた。お互い何も口に出さず、しばしの沈黙が訪れる。
 アディを見つめるテレネの瞳は、いつにも増して潤んでいるように見える。テレネの手がそっとアディの太ももの上に置かれ、身体がこちらを向いた。
 テレネの顔が近づいてくる。少し開いた唇はしっとり潤って見え、その艶やかな赤い色からアディは目を離せなかった。
「あっ」
 迫られたアディはバランスをくずし、ソファに倒れた。テレネがその上にのしかかる形。少し切ない表情で、何かを決意したような、そんな目の色。
 さすがにアディが耐え切れなくなった。
「あ、あの、すいません」
 そっと肩を押し返す。
 テレネははっと我に返ったように、飛び起きた。
「あ、ご、ごめんね。重かったよね」
「そろそろ帰ります」
「そ、そうだね、遅くなっちゃったね」
 アディはそそくさと家を出て自宅に帰る。帰っても考えがまとまらない。やっぱりそういうことなのか、でもなぜそんなと、もやもやするばかり。夕食も上の空、寝ようと思ってもさっぱり寝つけず。寝たか寝ないかのうちに朝を迎えた。
 さすがに次の日の朝は顔を合わせづらかったので、道を外れてぐるっと遠回りして登校することにした。
「アディ、おはようー! ……どうしたの? 顔色良くないけど、大丈夫?」
 アディの顔を見たマーシャが、開口一番心配の声を上げた。
「ああ、大丈夫。ちょっと寝つきが悪くて寝不足で。でも平気だよ」
「そうなの? ならいいけれど……」
 マーシャはちょっと気になる様子だった。でも事が事だけにマーシャには言いづらい。
 授業中もテレネのあの表情が思い出されて集中力を欠く。聖典の授業は散々だった。最初の簡単な所から間違えて、さっぱり正解にたどり着かない。
「珍しいわね、アディが間違えるの」
 サリルもびっくりしたようにアディを見る。
「う……うん、まあ、ちょっと……」
 返事をしようと顔を上げ、そちらを見た時。サリルの奥の窓の外の風景が目に入る。
 ぎょっとした。
 テレネが立っている。
 校庭の向こうの木の下から、こちらを見ていた。
 表情までは分からないけれど、アディ目当てなのは明らかだ。まさか、帰りまでずっと待っているつもりなんだろうか。そう考えたら、ぞくぞくと肌があわだった。
「アディ、どうかした?」
「あ、な、なんでもないです!」
 先生にたずねられ、あわてて聖典に目を落とす。しばらくしてから、そっともう一度見てみると、テレネの姿は消えていた。
 授業が終わり放課後となった。途端に、マーシャとサリルに詰め寄られた。二人とも終わるのを待ち構えていた様子だ。勢い込んで問いかける。
「ね、何かあったんだよね? 今日ずっと様子が変だよ」
「うん、私も気になる。話すべき」
 これだけ様子がおかしければ、隠し通せるはずもない。観念したアディは、仕方なく事のいきさつを語った。
 テレネにのしかかられて、という話をした辺りで、マーシャの様子が決定的に変わった。顔が真っ赤だけれど、それはいつもの可愛らしいものではなく、いわゆる般若の形相というやつだ。いつもより低い声音でしゃべりだした。
「アディは家に帰って。いつもの道使っちゃだめだよ。回り道してね。私が話しつけてくるから」
「ち……ちょっと、マーシャ?」
「大丈夫、心配しないで。ちょおっと泥棒猫にお灸を据えるだけだから」
 正直心配どころの騒ぎじゃない。マーシャの目つきは、今までずっと一緒にいた中で一度も見たことのないもので、無事ですむとは到底思えなかった。刃傷沙汰とかありそうな気配だ。
 そこのところはぼかして曖昧にしておくべきだったと、アディが気をもんでいると、サリルがぽんと肩に手を置く。
「大丈夫。私もついていくから」
「でもサリル……」
「とにかくアディは家に帰って待ってて。あとで行くから」
「うん……無茶させないでね」
「分かってる。任せて」
 本当に大丈夫かと心配だったが、サリルは落ち着いているように見えた。自分がついて行けばもっとややこしいことになるのは目に見えていて、言われた通り、家に帰るしかなかった。
 やはり遠回りして帰宅する。その間も気が気ではなかった。
「ただいまー」
「お帰り、アディ。朝、顔色よくなかったけど、大丈夫だったの?」
 帰宅するとマリィが出迎えた。息子の様子はやはり心配だったようだ。
「あ、う、うん。平気だよ」
「そう、ならいいんだけど。今日は早めに寝なさいね。……そう言えば、ねえアディ、あなた、テレネさんとよくお話しするって言ってたわよね?」
 帰ってきた家でもテレネの名前が出て、アディはどきっとした。
「え、う、うん」
「あの人、どんな感じの人?」
「え? どんな感じって?」
「実は今日、ウチに来たんだけどね」
「えっ!」
 驚いた。学校だけじゃなくて家にも来てたなんて。
 背筋にぞくぞくと寒気が走る。アディへの執着は、もはや異様だ。あわてて問い返す。
「そ、それで何話したの?」
「うーん。それがねえ。最初はケーキ焼いたからって持ってきてくれて、お茶入れて世間話してたんだけどね。何か急に、お父さんはどんな人だか知りたいみたいで、そんな話になって」
「お父さん?」
「うん。どんな人かとか、馴れ初めはとか。それで幼なじみで小さい頃から近所付き合いしててって答えたら、急に黙っちゃってね。最後にお父さんの写真見せたら、ぽろぽろ泣き出しちゃって」
「え? 泣き出した? なんで?」
「分かんない。だからちょっと心配になっちゃったのよ。ねえ、普段どんな感じなの?」
「普段って……」
 アディはこの間のことを言うべきか戸惑った。
 この流れだとテレネは完全に問題のある人だ。アディへの執着だけではなく、会ったことのない父に対してまで、おかしな言動。でも本当にそうなんだろうか。環境が変わったからじゃないのか。けれど、ウチに来て、お父さんのこと聞いてぽろぽろ泣き出すって、いったい何が……。
 その時、アディの背後で、扉をどんどんと叩く音がした。
「はーい」
 音の主は返事が聞こえないのか、どんどんと扉を叩き続けている。
「ちょ、ちょっと待ってください、今開けるから……」
 出てみると、そこにいたのは、目を真っ赤にして泣き腫らしたマーシャ。手をしっかり握って、テレネを連れてきていた。
 テレネも泣いていたようだ。頬に行く筋もの涙の跡があった。サリルもついてきていて、こちらは泣いてはいないものの、何かとても神妙な顔をしている。
 異様な雰囲気に、アディはあわてて声をかける。
「マーシャ? どうしたの?」
「アディ、テレネさんに優しくしてあげなくちゃ、だめだよー!」
 マーシャはそう言うと、またわっと泣き出した。
 とにかくみんなを家に上げ、事情を聞くことにする。けれど、マーシャはむせぶばかり。テレネも押し黙り、サリルはでしゃばる気はないようで、なかなか話が切り出せない。
 テーブルに座ってもらって、マリィが用意した温かい紅茶をすすり、みんな少し落ち着いたところで、ようやくテレネが口を開いた。
「初めて見た時に、ハイトお兄ちゃんが帰ってきたのかと思ったの」
 テレネはアディを見つめながら言った。
「アディ君、ほんとにそっくりなのよ。小さい頃から好きだった人……。お兄ちゃん、お兄ちゃんって後をついてて、ずっとお嫁さんになりたかった人……。でも、ちょうどアディ君達が生まれる前の年かな、神隠しになって……」
「えっ?」
 テレネの一言に、アディは驚いた。隣のマリィが、息を呑んだのも分かった。
 神隠しは十年に一度ぐらいの割合で起きている現象だ。ある日若者が忽然と姿を消す。
 教会によれば、それは特に優秀で神の言葉に近づいた者が、神に召される名誉なことだという。なので会えなくなるのは悲しいけれど、本人にとってはいいことだとされている。神のお傍で世界を作る重要な仕事を任されているのだと。
「うん、私の村でもそういうことになってる。お兄ちゃんは神様に認められた、めでたいって。でも頭でどんなにそう言い聞かせても、心はダメなの。ちょっと年は離れていたけど本当に大好きで、絶対お嫁さんになるんだって思ってた。
 なのに私が年頃になって、子供っぽい想いじゃなくて、本当に結婚してほしいって思うようになった頃、急にいなくなってしまって……。私は自分の身体の半分がなくなってしまった気がした。お兄ちゃんなしでは生きていけないんじゃないかって……。
 それからその喪失感はどうしてもなくならなかった。村で私に好意を寄せてくれた人もいたけれど、付き合う気にはなれなくて……。こんなんじゃ人生が無駄になっちゃう、お兄ちゃんもそれは望んでないはずだ、吹っ切らなくちゃと思った時に、今回のお話が来たの。
 これはちょうどいい機会、まさに神様がそういう機会をくれたんだと思って受けたんだけど。
 でも、お兄ちゃんにそっくりなアディ君を見たら、気が動転してしまって。年が全然違うんだから本人じゃないって分かってるんだけど、姿を重ねて見てしまっていたの……。
 今日こちらにおじゃまして、アディ君のお父さんもやっぱりお兄ちゃんじゃない、別の人だ、やっぱりお兄ちゃんは帰ってこないんだって確認して。それは分かってたことだけど、やっぱり悲しくて……」
 テレネの告白に、マーシャはまた泣いてる。マリィも涙目で、すすり上げている。
 二人とも小さい頃から幼なじみが好きという境遇は同じだ。マーシャはアディに、マリィはタムサに置き換えれば、気持ちはよく分かる。アディだって、急にマーシャがいなくなるなんて、考えたくない。
「ごめんね、アディ君。気持ち悪かったよね」
「いえ、そんな……」
 テレネはまだ涙声だったけれど、その表情は以前と違って見えた。少しさっぱりとした様子だった。
「良かったら、また遊びに来て。今度はみんなで一緒に来てよ。マーシャちゃんもごめんね。恋人にちょっかい出されたら困るよね。
 今日、マーシャちゃんの一生懸命な姿を見たら、昔の私を思い出したの。昔を引きずってこの子を悲しませちゃいけない、むしろこの子を応援してあげなくちゃと思ったら、本当に吹っ切れたような気がする。ありがとう」
「テレネさん」
 マーシャは嬉しそうだ。
「それじゃ、またね」
 テレネは帰っていった。サリルは一緒についていき、テレネを家に連れて行くそうだ。薬ほど強くない、心を落ち着けるいいハーブティーがあるのだと言っていた。
「神隠しかあ。急に好きな人がいなくなっちゃうって、私だったら耐えられないな」
 マーシャを送ろうと家を出たところでマーシャがつぶやく。そしてアディに振り向くと、袖をちょんと引いた。
「ね、アディ、ぎゅっとして」
「え、ここで?」
「うん。離さないでね」
 アディは照れながら、でもいつもより力を込めて抱きしめた。
「うふ。ちょっと苦し……」
 そう言いながらマーシャは、自分もアディの身体がそこにあることを確かめるかのように、ぎゅっと抱き返した。
 もちろん、マーシャを送って帰ってくると、マリィのニヤニヤした顔に出迎えられたのだった。

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