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アンナ・アップルトンの冒険 第二回

  三 トビィ、探偵助手になる

 雇われたばかりで一番下っぱの召使いのトビィの仕事は、みんなの仕事を色々と手伝う事だった。
 そういう意味では、市場で働いていた時と変わらない。台所仕事を手伝って皿洗いとか、銀の食器を磨いたりとか、屋敷中のランプを掃除したりとか。それに、買い物につきそって荷物持ちしたり、お使いに行ったり。仕事はたくさんあって、休むひまもなかった。
 最初の印象と違って、執事のアルフレッドは、すごくしっかりした落ち着いた人だった。言葉遣いから動作から、執事の見本のような人。仕事の指示は的確で、全てに目配りを欠かすことがない。だんな様の信頼も厚かった。
 当初アルフレッドは、いきなり雇ったトビィがちゃんと働けるか心配だったらしく、何かとトビィの仕事振りを見に来ていたが、トビィが真面目で覚えも早いと知ると安心したようだ。よい拾い物をしたと言っていた、と従僕の一人から聞き、トビィは嬉しかった。
 アンナはいい人だった。主人だからといばる事もなく、気さくで召使いにも優しい。屋敷のみんなは、アンナのことが大好きだった。アルフレッドも例外ではなかったが、ただ、それだけに気苦労が絶えないようだった。アンナには、思い込んだら脇目も振らないところがあったからだ。
 小さい頃には、階段の手すりを上の階から下の玄関ホールまで一気に滑り降りられるのではないか、と思い立ち、途中の階でスピードが出すぎて振り落とされて、大怪我をしたそうだ。
「だからお嬢様は、つむじの横っちょに小さなハゲが残ってるんだぜ」とは、仲良くなった従僕のジョンの話。
 後にトビィがそれとなく真偽を聞いてみたところ。
「な、ないわよ、もうそんなもの。ずっとちっちゃかった頃の話なのよ? だいたい、やあね、そんな話誰から聞いたの? そんなばかなことしたのは、ホントに小さかったからですからね。大きくなってからはしてないんだから」
 アンナはつむじの横っちょを手で押さえ、恥ずかしそうに言い訳した。ちょうどその時居合わせたアルフレッドが、アンナの背後で哀しそうにため息をつき、小さく首を振っていたのを、トビィは見逃さなかった。
 アンナはちょくちょくトビィの所に顔を出した。普通貴族の屋敷では、主人と使用人の住む区画ははっきり分かれているそうなのだが、アンナはあまり構うことなく、みんなの働いている所に遊びに来ては、楽しくおしゃべりしていた。たまに調理室でコックと一緒に、ライスプディング作りに精を出していたりもする。
 本来貴族のお嬢様のすることではないのだが、それを見かけてもアルフレッドが特に何を言うという事もなかった。でなければアンナが一人、寂しく過ごすしかないと知っているからだ。
 アンナには兄弟はおらず一人っ子で、伯爵は仕事で忙しい。他に家族はいなかった。アンナの母は、アンナが小さいころ、亡くなったそうだ。
 トビィと同じだ。
 アンナがトビィに優しくしたのは、そのためだったかもしれない。

そんなある日、トビィはアンナに呼ばれた。
「ねえ、トビィ、あなた学校は行ってた? 読み書きはできる?」
「え、ええっと、ちょこっとだけ。お母さんが亡くなって、行けなくなったんです。でも、一応読み書きはできます」
「一応、じゃ、だめだわ。ちゃんとした文章が書けないと。じゃあ、私の勉強時間に、いっしょに勉強しましょう。執事さんと家庭教師のミス・マーガレットには、私から話しておくわ。それから、これを読んでおいてね」
 アンナはそう言って、トビィにどさっと何冊も本を渡した。いったいなんだろう、と首をかしげながら本をかかえて歩いていると、アルフレッドに呼び止められた。
「おいトビィ。これを手伝って……おや、本なんか抱えて、どうした?」
「お嬢様がこれを読めって。何なんでしょう、この本」
 一番上の本の表紙には、「シャーロック・ホームズの冒険」と書いてある。他も同じシリーズみたいだ。
「ははあ……」
 アルフレッドは、深くため息をついた。そばいた従僕のジョンが、にやりと笑って説明した。
「それは最近、世間で、ものすごく流行っている探偵小説なんだよ。お嬢様は、それにはまって、すっかり感化されて、それで探偵になるとおっしゃりだしたんだ。周りの者みんなが危ないからとお止めしても、まったくお構いなし。俺達も目を光らせているんだが、すぐに抜け出して、どこかに行ってしまわれる。結局、俺達従僕は、誰一人として、お嬢様をお止めできなくてな。それで業を煮やした執事さんが、この間とうとう自ら見張っていたんだが、やっぱり駄目だったというわけさ」
 アルフレッドは、眉根にしわを寄せて、困り果てたという顔で言った。
「まったく、本当に、どうしたらいいものか。お止め下さいとお願いしても、全然聞いて下さらない。それにあの格好。遠い異国にはズボンをはく女性もいるそうだが、少なくともこのロンドンでは、そんなおかしな格好をしているのは見た事がない。でも、これも、探偵はこうなんだと、わざわざ仕立て屋に特別に注文して作らせて、主人公と同じ格好をなさってるんだ。こんな事をしていたら、このアップルトン家のお嬢様が、ロンドン中の物笑いの種になってしまう」
 アルフレッドはもう一度、深いため息をついた。なるほど、それであんな格好で下町に現れたのか、とトビィは納得した。アルフレッドの心配も分かる。見世物小屋の役者でもなければ、普通女の人があんな格好したりはしないものだ。
「そうだったんですか。……でもなんで僕に、これを読めっておっしゃったんでしょう?」
「お前の活躍によほど感銘なさったらしくて、あの後もちょくちょく口にしていたからな。助手にでもするおつもりなんだろう。……そうだ、ならばちょうどいい! お前が探偵ごっこの助手になるのなら、お嬢様が危なっかしいことに手を出さないように、お前がお嬢様をお守りしなさい。お前は下町育ちだから、そういう事にもめはしが利くだろう。いいか、くれぐれも、お嬢様が無茶しないように、しっかり面倒を見るんだぞ!」
「えー!」
 こうしてトビィは、アンナの助手に採用されたのだった。
トビィは言われたとおり、シャーロック・ホームズを読んだ。学校を途中で辞めてしまったので、知らない言葉がたくさんあって大変だったが、アンナに辞書を借りて、使い方を教えてもらい、それを引き引き、仕事の合間や、寝る前に読んだ。
 つっかえつっかえだったけど、でも、それでもその本は、すごく面白いものだった。特に、主人公のシャーロック・ホームズ氏がすごく物知りで、ちょっとした証拠を見逃さず、あざやかに推理するのはすごいなと思った。
 アンナは、これにあこがれてるのか。確かにかっこいい。その気持ちは分かる。
その気持ちは分かるけど、ただトビィが気になったのは、物語の中に、けっこう危ない捕り物があることだった。
 ホームズ氏は大人だし、犯人が襲いかかってきても、鮮やかに捕まえられるけれど、アンナは子供で、何と言っても女の子。なのに、最初に出会った時も、殺人事件を追いかけていたみたいだったし。殺人犯なんて、危ない人と向かい合うことになったら、どうする気なのか。
 いや、殺人犯じゃなくても、現にこの間トビィが連れて逃げなかったら、ピータースにとっ捕まって、ひどい目にあっていたに違いなかった。
 つまり、ああいうふうに、アンナの身に危険が及ばないように、これから、トビィが何とかしなくちゃいけないのだ。そう思うと、気が重くなった。だって、話を聞いた限りでは、アンナは周りが止めても全然聞いてくれないみたいだったから。
 あのピータースに、平然と突っかかっていくぐらいだ。今度はどこで、何をするのか。
そう考えると、トビィの口から、はあー、と深いため息が出た。
 アルフレッドの心配性が、トビィにもうつってしまったようだった。

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