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アンナ・アップルトンの冒険 第一回

  一 トビィ、アンナに出会う

 時は十九世紀末、所は大英帝国の首都、ロンドン。公園に面して立ち並ぶ大きな建物の中の、とある屋敷の一室。がっしりとした本棚に並ぶ書籍。壁にかかる世界地図。そのとなりにある移動式の黒板に、書き残された英単語のつづり。
 どうやらそこは勉強部屋のようだった。背の高い窓から、柔らかな午後の日差しが差し込んでいる。
 その部屋の中央に置かれた円卓で、一人の少年がノートに向かっていた。
 小麦色の髪、青みがかったグレイの瞳、鼻の頭にそばかすのあるその少年は、少したどたどしく、けれど一文字一文字丁寧に、文章をつづっている。
『ぼくの名前はトビィ。トビィ・トマス・テイラー。サウスオーチャード伯ジョージ・アップルトン氏のお屋敷に勤める召使いです。
 これからみなさんにお伝えする物語は、ある少女と少年が、知恵と勇気をふりしぼり、世に巣くう悪漢どもに立ち向かうお話です。
 この少年とは、すなわちぼくのことで、少女というのは、お嬢様。伯爵令嬢、アンナベル・アレクサンドラ・アップルトン嬢。とてもかしこく、勇敢で、正義感にあふれた名探偵……。
 ……って、書けって、お嬢様が、ぼくに念をおしていました。ちゃんと書かなけりゃ、いけません。でないと、おこられちまいます。
 ちなみにぼくがこんな本を書いているのも、名探偵の活躍は、相棒がちくいち書き留めて、手記にまとめるもんだって、アンナお嬢様から命じられたからです。これはなかなか難しい仕事です。ぼくはまだ書き物が苦手だし、でもかっこよくまとめないと、お嬢様は満足なさらないでしょうから。
 それではまず、なぜこんなことになっているのか、事の起こりから始めましょう。』
 書き進めながら、その少年トビィは、自分の仕える伯爵令嬢アンナとの出会いと、そしてそこから始まった、数奇な冒険譚を思い出していた。
 そう、これはある少女と少年が、知恵と勇気を振り絞り、世に巣くう悪漢どもに立ち向かったお話……。

 トビィとアンナの初めて出会いは、ロンドンの、イーストエンドでのことだった。
 貴族や金持ちが住む山の手のウエストエンドとは違い、イーストエンドは、ごちゃごちゃと狭くて薄汚くて、立ち並ぶ煙突から出る煙で青い空もくすんで見えるような、いわゆる貧民街だ。貧しい人々がひしめき合い、犯罪や病がはびこって、けれど活気に満ちている。そんな喧騒の街で、トビィは暮らしていた。
 トビィは父親の顔を知らなかった。トビィがまだよちよち歩きの赤ん坊の頃に、亡くなってしまったのだ。数年前には母親も、流行り病で天国に召されてしまった。
 その後トビィは、母の妹の、叔母の家に引き取られた。叔母は優しい人だったが、その夫は、そりゃあひどい人だった。酒を飲むとすぐ暴力をふるうのだ。
 やれ、お前のせいで生活が苦しいだの、こんなやっかい者を押し付けておっちにやがってだの、さんざんひどいことを言ってはトビィを殴った。叔母がかばえば機嫌を悪くしてますます荒れ、従姉妹たちまでとばっちりを食う。これではみんなも耐えられないと感じたトビィは、とうとう家を飛び出した。
 こう聞くと、トビィがすごく不幸に思え、あわれみを誘われるかもしれない。でも実は、トビィはそれほど気にしていなかった。それは、この時代のこの辺りでは、ごくごくありふれた事で、十を過ぎたぐらいの子供が働いて一人で暮らすのも、そう珍しくはなかったからだ。
 それに母が、よく口ぐせのように、小さなトビィに教えてくれていた。
「いいかい、トビィ。コツコツ真面目に生きていれば、絶対、神様は見ていて下さるんだから。いつか、いいこと起きるから、絶対、ひねたりすねたりしちゃ、いけないよ」
 それはイーストエンドのような所では、とても難しい事だった。貧しく、その日の暮らしにも困るような所では、人は簡単に道を踏み外す。だからこそ、母は我が子の将来を思い願って、とても大切な事として小さなトビィに言い含めたのだ。
 そして母親が大好きだったトビィは、その言葉を大切に胸にしまっていた。家を飛び出してしまったけれどくよくよせずに、毎日一生懸命に働いて、暮らしていた。
 そうして、トビィはアンナと出会った。

「スミスさん、届け物終わったよー!」
 市場に戻ってきたトビィは、八百屋の主人に声をかけた。弾む息と紅潮した頬が、ここまで駆け戻ってきた様子を物語っている。
「おう、トビィ、ご苦労さん! さすがに速いな。急ぎの仕事はトビィに頼むに限るよ。この辺の小僧どもの中じゃおまえさんが一番だ」
 満足そうにうなずいた八百屋の主人は、前かけのポケットをごそごそと探ると、硬貨を一枚取り出し、トビィに手渡した。
「ほい、約束の駄賃」
「エヘヘ、ありがと……あれ?」
「早く仕事を片付けてくれたから、色つけといたぜ」
「わあ、ありがとう!」
「おう、またよろしくな」
 思っていたよりちょっと大きめの硬貨に、トビィの顔は自然とほころんだ。母の教えを実感するのはこういうときだ。八百屋のスミスは気前のいい大らかな人柄で、トビィに優しい。
 トビィは毎日、市場で掃除をしたり、荷物を運んだりして働いていた。そんなにすごく稼げるわけではなかったけれど、せっせと駆け回るその姿が市場のみんなに気に入ってもらえ、こまごまとした仕事には事欠かなくなった。まじめに一日働けば、なんとか暮らしていける。
 この日も、朝早く、日の出ないうちからあちらへ使いに行き、こちらで汗を流しして、ようやく午前の仕事を終えたところ。遅い昼食の時間になっていた。
 トビィのお腹が、くう、と鳴り、空腹を知らせる。何を食べようかな。トビィの足は市場に出ている屋台へと向かった。
 いつも持っている袋の中から、硬くなった黒パン一切れと、ちょっと欠けてる自分のマグカップを取り出した。屋台でエンドウ豆のスープを注文して、これに注いでもらうのだ。硬くなった黒パンも、スープに浸して柔らかくすれば、おいしく食べられる。
「よう、トビィ。たまにはうちの、あつあつのミートパイはどうだい」
 隣の屋台から、声がかかった。ミートパイの香ばしい、おいしそうなにおいがただよってくる。思わずのどがごくりと鳴る。手元にはスミスからもらった、いつもより多めの駄賃……。
「おいしそうだね。……でも、やめとくよ」
「ちえー、あいかわらずしっかりしてるな、トビィは。もうけっこう、貯まったんじゃないのかい?」
「ううん、まだまだ」
 トビィは、なるべく節約してお金をためて、いつか自分も屋台を持ちたいと思っていた。
 市場に出ている屋台は、そこで働く人達で、いつも繁盛している。トビィも屋台を用意して、そこでちょっとおいしいものでも作って売れば、もっと稼ぎがよくなって、もう少しましな暮らしができるはず。叔母の家にいた時よく手伝っていたので、トビィも簡単なものなら、なかなかおいしく作れた。
 何がいいかなあ。
 えんどう豆のスープをすすりながら、そんなことを考えていると。
「おい」
 周りのみんなが、ざわつき始めた。
 向こうから、一人の女の子が歩いてくる。
 みんな、そちらを見ている。
 濃いブルネットの長い髪。
 大きな瞳。
 きりっとした眉。
 整った顔の、可愛い女の子。
 しかし、みんなが何より驚いていたのは、その格好だった。すらりとした身体を仕立てのいい服に包んだ、明らかに上流階級のお嬢様。けれどその服は、男物の服。まるで紳士のようないでたちだった。
 こんなごちゃごちゃした市場に、育ちの良さそうな女の子が来るだけでも場違いだ。それでいて、紳士のようなズボンをはいてスーツを着て、となると、みな見た事もなかった。
 この当時、男性と女性の服装ははっきりと違っていた。女性、特に上流階級の女性となれば、コルセットでウエストを細く締め、あのふんわりとしたドレスを着ていた頃だ。そこで男物のスーツを着る少女というのは、かなり奇抜な格好だった。
 見慣れぬ姿にあっけに取られ、みんなじろじろと眺めていたけれど、その少女は、すっと背筋をのばして堂々と、まったく気にしていないふう。
 トビィも驚いて、ボーッと見ていると。
 辺りを見わたしていたその子と、ぱちっと目が合った。
 するとその少女は、暖かい春の日差しに花がほころぶように、にっこりと笑った。
 その明るい笑顔に、トビィはドキッとした。かわいらしく、整った顔立ちが、笑うといっそう魅力的に見えたから。
 この人が、伯爵令嬢アンナ・アップルトン嬢だった。
 この時は、当然、そんなことになるとはトビィは気が付きもしなかったが、この出会いがトビィの運命を大きく変え、数々の事件に巻きこんだのだ。笑いかけられて、どぎまぎととまどうトビィに、すたすたと歩み寄ってくると、アンナは言った。
「ね、この辺りに、ピータースっていう人がいるって聞いてきたんだけど、あなた知ってる?」
 びっくりした。
 ピータースといえば、この辺では有名なゴロツキだ。そんな男の名前が、こんなお嬢様の口から出るなんて。聞き耳を立てていた周りのみんなもざわめいた。そんなことを知ってか知らずか、アンナはにこやかな顔でトビィを見つめている。
「う……うん。この時間なら、もう、酒場で飲んでいるころのはずだけど……」
「連れてってくれない?」
「い……いいよ」
 こんなかわいい上流階級のお嬢様がピータースなんかに何の用があるんだろう、とトビィは不思議に思ったが、とにかく酒場へ案内することにした。
 アンナを連れて通りを歩いていると、道行く誰もが振り返る。それだけアンナのこの格好は目立つのだ。
 見られているのは自分じゃないと分かっていても、何か緊張してしまう。市場に来るまでの間も、アンナはずっとこうして見られていたはずだが、全然気にならなかったのだろうか。少なくとも今、トビィがちらりと横目で見た感じでは、平然とした様子。ホントに変わった子だなあ、とトビィは思った。
 そうこうしているうちに、二人は目指す酒場へと着いた。下町のこの辺りに多くある、小ぢんまりとした店だ。
「ここにいるの?」
「たぶんいると思うけど……。ちょっと見てみるね」
 扉を開けて、中をそっと覗き込む。
 テムズ川の船着場で働く荷役人夫達の集まるこの酒場は、この辺でも、がらの悪い事で有名だった。早朝からの仕事を終えた人夫達が、そろそろ集まってきていて、一杯ひっかけているところ。
「いた」
 その中で、ひときわ大きいひげもじゃの男。ピータースだ。がっちりした顎、とがった鼻に、頬に大きな傷あとがあるのですぐ分かる。
 トビィの肩越しにのぞきこむアンナに、指をさして教えてやる。
「あいつだよ、ピータース」
「ふうん……ありがと」
 ほほえんで、そう礼を述べると。
 アンナはいきなりすたすたと、テーブルに歩み寄っていった!
 トビィはびっくりして、あわてて後を追った。店の中の人達は、やはり市場のときと同様に、場違いなおかしな格好をした女の子を、驚いて見つめている。
「何の用だね」
 ピータースが、目の前に立ったアンナを、じろりとにらみつけて言った。ピータースは外見からして、その評判通りの風体。にらまれたら、ふるえ上がってしまう。
 でもアンナは、そんなことはどこ吹く風。まったくひるむ様子もなく、にっこりと微笑んだ。
 そしておもむろに懐から取り出した物は。
 よく手入れされていると遠目にも分かる、細身のパイプ。紳士風のいでたちに、とても似合う一品だ。
 まさかそれでタバコを吸うのかと思ったが、そういうわけではないらしい。ただ手に持って、なにやら芝居がかったポーズをとると、こほんと一つ咳をして。
 はっきりした口調で、言った。
「ピータース君、ずばり言おう。君が犯人だ!」
 みんな、あっけに取られた。
 トビィも、いきなりの意外なセリフに、声も出なかった。ただ、目の前のアンナを、まじまじと見つめるだけ。
 それはピータースも同じで、はあ? と声にならない声を上げた後、あ然とした顔で問い返した。
「何、言ってんだ? 俺が何の犯人だって?」
「先週、テムズ川にかかる橋の上で、女性の遺体が見つかった事件は知っているね?」
 真っ直ぐ背すじを伸ばし少し斜に構えて、低い声色でしゃべるアンナは、何かになりきっているようだった。その様子に戸惑いながらも、ピータースは答えた。
「あ、ああ。近くの酒場で働いてた娘だろう。ひでえ話だ。鋭い刃物で首切られて、殺されたらしいじゃねえか。まるで、ニワトリでも絞めて、血抜きするみたいにな。……おい、ちょっと待て! その犯人が俺だってのか?」
「君は以前に彼女に言い寄って、こっぴどく振られ、大騒ぎしたそうだね。その時ものすごい剣幕で、殺してやるってわめいていたらしいじゃないか。見たところ、女性にもてそうな顔をしてないし、きっと、鬱屈したものが溜まっていたに違いない。犯人は、君だ!」
 アンナは、ホントにずばりと言い切った。自信満々だ。けれどトビィは思った。でも、確か……。
「お、お、俺がもてないだと!」
「そうだ。僕は人を見る目には自信があってね。……。……ねえ、もてないわよね?」
 アンナはここでちょっと不安そうな顔をして、素に戻って確かめた。確かに、顔をぱっと見ただけで、もてないだなんて失礼な話だ。しかし、ピータースにとって残念な事に、これは図星だった。そして、人は、ずばりと図星を指されて何も言い返せない時ほど、腹の立つ事はないのだ。
 この時のピータースがそうだった。口をパクパクさせて、見る間に顔が赤くなり、いきなりがたんと立ち上がると。
「うが――――っっ!」
 大声を上げて、アンナに飛びかかろうとした。
「ごめん!」「きゃっ?」
 トビィはアンナを肩に担ぎ上げると、一目散に駆け出した。後ろからピータースが怒号を上げて、じゃまなテーブルをなぎ倒しながら追いかけてくる。顔を真っ赤にして頭から湯気の出そうなその様子は、まるで蒸気機関車のようだ。
 トビィは同い年の子に比べて、特に大きくがっちりしているわけでもないが、見た目よりも力があることには、ちょっと自信があった。足もわりと速い方で、それで市場のみんなから重用されているのだ。
 でもさすがに、女の子一人を肩に担いで、荒れ狂うピータースから逃げ切る自信はない。こりゃまずいと、トビィは大急ぎで、酒場の近所のヘレンばあさんの家に飛びこんだ。
「おや、トビィ、いらっしゃい。どうしたんだい、そんなにあわてて」
「た、助けて! ピータースが怒って、追っかけてくるんだよ!」
「え? なんだい、あの子、また暴れてるのかい。しかも、こんな子供相手に、まったくしょうがないねえ。いいよ、ここは、ばあちゃんに任せて、裏口からお逃げ」
「ありがとう!」
 トビィは急いで台所を抜け、裏口から飛び出した。家の中から、ヘレンばあさんがピータースを怒鳴りつける声が聞こえてくる。
 ヘレンばあさんは、この辺の子供の面倒をなにかと見ている人だった。乱暴者のピータースも、子供の頃から世話になっているので頭が上がらない。これで、時間が稼げる。トビィは振り返ることもせず、全速力で走り続けた。
 ここまで来ればもう追っかけてこないだろう、という所まで必死で走って、トビィはアンナを下ろした。急な展開に驚いたのか、トビィに担がれても大人しいままだったアンナが、ここでようやく口を開いた。
「なんて乱暴者なのかしら! いきなり暴れ出すなんて! やっぱり私の推理は間違っていなかったわ! あいつが犯人で決まりよ!」
「違うよ」
 トビィはぜえぜえと肩で息をしながら、答えた。
「何言っているのよ、あなたも見たでしょう? 犯人だって本当の事を指摘されたから、あんなに激高したんじゃないの!」
「違うって。見当違いだよ。だってあいつ、その日は警察の留置所にいたんだもん。市場からジャガイモ届けに行った時、酒場の主人がぼやいてた。あの酒場でけんかして大暴れして、とっ捕まってたんだ」
「え?」
「それにだいたい、殺すのなんのっていうのは、あいつの口ぐせだよ。所かまわず、いつもわめいているよ。そのたびに殺人を犯していたら、今ごろ千人は殺しているよ」
「じゃ、なんであんなに怒ってたのよ! そう言えばいいじゃない!」
「それは……。君があいつの痛いところをついたから……。もてないのは当りなんだ。顔はああだし、酒ぐせ悪いし、乱暴だし。そのくせ、惚れっぽいんだよ。つい三日ほど前にも、別の人に振られて、大荒れだったんだ」
「……あら、そうなの。……それじゃ、悪い事言っちゃったわね」
 ここでアンナは、後悔の表情を見せた。女性にそでにされたばかりの傷心のピータースに、かわいそうなことをしたと思ったようだ。
 いきなり堂々と乗りこんでいって、人を犯人呼ばわりするなんて、いったいどういう人なんだろうと、トビィはアンナの正体がつかめずにとまどっていたが、その顔を見て、悪い人ではなさそうだ、と感じたのだった。
「じゃ、あなたが助けてくれなきゃ、今ごろひどいことになってたわね」
「うん。あいつ、かっとなると、女子供も見境ないからね。それこそ今ごろ、テムズ川に浮かんでいたかも」
 アンナはテムズ川に浮かぶ自分の姿を想像したらしく、ぶるっと身ぶるいした。
 それから、トビィをじっと見て、にっこり笑って言った。
「それじゃ、あなたにお礼をしなくちゃ!」

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