心の師 お茶大名誉教授の土屋賢二さんの処女作『われ笑う、ゆえにわれあり』。

この本に出会ってしまったのが、自分の人生を大きく狂わせるなどと、到底、感じることはなかったのが間違いであったと気づいた時には、時すでに遅し。後悔、先に立たず。

書店の棚に面出しで置いてあった、この『われ笑う、ゆえにわれあり』なんですが、仕事中でもあったので、ささーっと読んでみたところ、軽く衝撃を受けてしまいました。

「これは何の本だ?」

週刊文春に連載されていた土屋さんの連載するエッセイが本になったわけなんですが、1997年11月発行の文庫本。初版です。単行本は、1994年刊。

土屋さんは、当時、お茶大文学部哲学科の教授で、その後、無事、職務を全うされ、お茶大を定年退職し名誉教授になっています。お茶大は大丈夫なのだろうかと当時から思っていましたが、今もその疑いが払拭されないままです。

今なお、週刊文春にエッセイを書き続ける土屋さんですが、文春も大迷惑この上ないと感じているかと思うと、クスッと笑ってしまいます。

この本の土屋さんの献辞

 本書を完成できたのは、多くの人々のおかげである。それどころかこの人々がいなかったら、そもそも今のわたしというものがありえなかったと言っても過言ではない。苦しみ、悩み、トラブルをいまのわかしがもっているのも、経済力、自由、明るさといった貴重なものをいまのわたしがもっていないのも、すべてこの人々のおかげなのである。もし、この人々がいなかったら、そして忠告や助言をいただかなかったら、本書は今日よりずっと以前に完成していたことだろう。
 こういうわけで、わたしに一言も助言しないでいてくれた見知らぬ人々に本書を捧げたい。
 なお、本書に登場する人名、団体名などが実在のものと合致する場合、それはたんなる偶然ではないことをお断りしておきたい。

土屋さんのひねくれた笑いのセンスが大好きで、その後も、次々と土屋さんの本を買って、見事に術中にはまっています。

何年だったか前に、朝日新聞サイトの広告企画で土屋さんの対談記事が掲載されました。非常に真面目な対談で、対談の最後に、「ぜひ、大学生活で世の中には多くの価値観があることを学んでほしい」と述べています。

この時、やはり土屋さんは真面目な人だったんだと確信したかというとそうでもく、本書の巻末、お茶大出身で漫画家・エッセイストの柴門ふみさんのコメントの中に、その答えが書かれています。

柴門ふみ「先生、そんなに深読みすると疲れませんか。ひねくれるのをやめると、ラクになりますよ」
土屋教授「バカ、すべてを疑うのが、哲学者の習性なのだ。哲学科を出てて、そんなことも知らないのか」

そもそも広告企画に都合の悪い記事を載せるはずもなく、読者を見事に欺いたつもりに対しても苦笑。

ユーモアあふれる土屋さんですが、ほんとのところどんな人なのかなと思っていますが、もし話をすることがあったとしてガッカリするのもイヤだなと思っています。著書の中で自称・お茶大のベッカムと大言壮語するというか、所望するというか、請願していたり。

演繹法で考えると、土屋さんは大学教授であった。大学教授だからといって善人とは限らない。ゆえに、土屋さんは善人とは限らない。

本書の各エッセイのタイトルはこんなのです。
・愛ってなんぼのものか?<懐疑主義的恋愛論>
・人間を定義するのは不可能である。
・あなたも今日から老化が楽しめる
・わたしはこうして健康に打ち勝った
・女性をとことん賛美する<超好意的女性論序説>
・女性にも欠点はある
・健康診断の論理と心理
・何も考えないで楽しく生きる方法
など。

土屋さんも自分も同じ射手座なので、どこか共鳴するところがあるんでしょうかね。どの作品だったか、序文に「もしこの本を買えば著者(土屋さん)が喜ぶだろう。仮に買って気に入らなければ古本屋に売れば100円になり、あなたが喜ぶだろう」というようなことが書いてあります。

どこまでもユニークな人ですが、未だ週刊文春に連載されてるわけなので、ごく一部の人たちに受け入れられているのかどうか。

ちなみに土屋さんはジャズ・ピアニスト(腕前は知りません)。CDデビューとかしてくれませんかねぇ。上原ひろみさんと共演するとかどうでしょう。

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