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【日記】あなたを傷つける人からは、逃げていいんだよ。そう言われても、逃げる勇気が出ないときは。

 あなたを傷つける人からは、逃げていいんだよ。
 いつだったか、私が精神的にもっとも追い込まれていたとき、何人かの人にそう言われた。当時のことを、もはや私は具体的には思い出せないけれど、おそらくは、見ていられないような状況だったのだろうと思う。
 あのときのことを、今でもときどき、夢に見る。あれはなんだったんだろう。私は何に恋していたのだろう。ぼんやりと霞がかかっていて、頭の中のスクリーンに、はっきりと映し出すことができない。
 この人から離れるべきだ、とわかっていた。どんなに好きでも、ここまでズタボロになってまで一緒にいるのは、健全じゃない。でも逃げられなかった。勇気が出なかった。鋭い相手の言葉が悪いのではなく、その程度の言葉で簡単に傷つくような私の弱い心が問題なのだとしか、思えなかったからだ。”愛を持って”せっかく投げかけてくれているにもかかわらず、その愛を受け止めきれず、ショックを受けてしまうような、精神的な未熟さ。釣り合わなさ。格上の人間が私ごときを愛してくれているにもかかわらず、見合うほどの価値を返せないどころか、簡単に傷ついてしまうなど、どう考えても私がおかしいとしか思えなかった。この程度のことで被害者ヅラする自分を許せなかった。私は被害者じゃないのに、相手に迷惑をかけてばかりの、間違いなく「加害する側」なのに。責められるべきはあっちじゃなくて私なのに。そう頭では自分を責めるくせに、私の心は「つらい」と泣き、「もう傷つきたくない」と叫んでいた。
 責める側と、責められる側を、行ったり来たり。いつになったらここから抜け出せるんだろうと思った。あるいは私は、抜け出したくないだけなのだろうかとも思った。こうやって、決断しないまま、ぐるぐると同じ場所を彷徨っているこの状況が、居心地いいだけなのだろうか、とも。
 
 学んだことが、一つある。
 深く、深く傷つききったときは、心が本当に痛いと思ったときは、「客観視しよう」などとは考えないほうがいい、ということだ。俯瞰して、冷静に物事を見て、善悪の判断をしよう。こっちは私も悪かった。でも、この点に関しては私は悪くなかった。相手も同様。どちらにも落ち度はある。そんなふうに、客観的に観察して答えを出そうとしたくなる。私もそうだった。
 でも無理だった。心が本当に限界を迎えているときは、「客観視」だの「理性」だの「冷静」だのといったものは、なんの役にも立たないのだと学んだ。なぜなら、一つ相手の落ち度を見つけることは、また新たな罪悪感を生むだけだからだ。「あの人の言葉に私は傷ついた」。そうノートに書き込むたびに、「いやいや、でも私もひどいこと言っちゃったし」と、今度は自分の落ち度を追加して、両者のバランスを取りたくなってしまう。お互いの落ち度の箇条書きリストが延々と下に伸びていくだけだった。

 100パーセントあいつが悪いでいいんだよ、たまには、と思う。そういうときもあっていい。たとえそれが真実じゃなくても、私にも悪いところがあっても、それでも「あいつが全部悪い!」って言い切っちゃっていいんだよ。筋が通っていないって、自分でちゃんとわかっていても、こんなの嘘だって疑いながらでも、声に出すべきなんだ。あいつが悪い。私は悪くない。一度そうやって、全部あっちが悪いってことにして、ラインを引く。ぴっとさよならの儀式をする。そうして、この白線の、こっちから右は、全部あいつが悪かったです。でも、こっちから左は、今日からは、いま、この瞬間からは全部、私の責任です。私がしょいこんでいきます。ここで切り替えます! って、どっかで、ふんぎりをつけるタイミングってのは、つくるしかないんだよなあ、自分で。

 自分の責任で生きていくっていうのは、なんて怖いことだろうと思う。ぶるぶる震えちゃうよ。でもそうやってけじめつけるしかないんだよな。自分で「決める」しかないんだ。いつまでも、「あっちが悪い」と「こっちが悪い」のあいだを反復横跳びし続けるわけには、やっぱりいかないんだよ。
 自分のための人生を生きるって、たぶん、そういうことなんだ。




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