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人生で最も幸せな日

小学校4年生の時、授業中に父が突然教室に来た。
教室の前扉から担任を呼び出して廊下で一言二言話すと、
担任だけ戻ってきて「今日はもう帰っていい」と言われた。

父は幼い弟を連れてきており、
ランドセルを背負ったまま父に付いて校門を出て、
父の車で立川駅まで行った。
駐車場に車を停めると、
「これから<あずさ>に乗るから」
と父は言った。

立川駅のホームに到着した<あずさ>の指定席に、
父と並んで座った。
弟は父の膝の上だ。
私は憧れのL特急、それも<あずさ>に乗られたので、
車内や車窓をジロジロ見ながら、
父に<あずさ>について知ってることを喋り続けた。

その前年、母が難病で倒れ、
病院を転々としていまだに入院していた。
私は、人前で西城秀樹の「情熱の嵐」を、
みかん箱に乗って披露するのが好きな陽気な子どもだったが、
母の代わりに家事を手伝い弟の世話もするようになり、
笑うことの少ない<大人びた子ども>にならざるえなかった。

<ヤングケアラー>という言葉が今はあるが、
その頃あればどれだけ救いになっただろうかと想像する。
翌年母は退院してきたが、
二、三年は寝たきりで寝室から呼び掛けられるのが憂鬱だった。
マッサージしてくれ、薬をくれ、買い物をしてくれ云々。
私の笑顔はさらに減った。

<あずさ>は松本行きだったが、
私たちは甲府まで乗り改札から出ることなく、
中央線の普通列車を乗り継いで立川まで帰ってきた。
私は「な〜んだ」と思ったが幸せだった。
菅原文太のように口数が少なく怒りっぽい父が、
週に一度の定休日に息子を喜ばせようと計画して、
サプライズで小学校まで来てくれたのだから。

しかし私の<人生で最も幸せな日>はこの日ではない。

その日から35年ほど経って父が亡くなった。
30代で亡くなるという母は医療の発展の恩恵を受けて80歳になる今も、
そこそこ元気に暮らしている。
父が亡くなった時、
私はまだ独身で実家にはほとんど寄り付かなかった。
葬儀の仕切りは弟と母が行った。
私は葬儀までの数日間実家にいてすることがないので、
同級生に会いに行ったり久しぶりの故郷をぶらぶらしたりしていた。

一つだけやったことは文章を練ることだ。
弟のパソコンを借りて文章を練る。
なんの文章か?
告別式の挨拶である。
挨拶だけは長男の仕事である。

告別式で私はその文章を誦じた。
胸が詰まって練った文章の7割しか口に出せなかったが、
私がいちばん伝えたかったことはちゃんと口に出すことができた。

<あずさ>のサプライズである。

父という人の優しさ、
子どもに対する愛情、
そして私が幸せだったこと、
そのことを父を見送る多くの人たちに伝えることができた。
だからこの日こそが私の、「人生で最も幸せな日」である。

もしも、私の文章で<人生はそんなに悪くない>と思っていただけたら、とても嬉しいです。私も<人生はそんなに悪くない>と思っています。ご縁がありましたら、バトンをお繋ぎいただけますと、とても助かります。