見出し画像

「山懐の女たち」 第2回 「草鞋縦走 村井米子」 正津勉

 前回、「鳶山崩れ 幸田文」を書いた。「正味五十二キロ」の瘦躯を、案内者に負われて崩壊地を登る老婆。文、明治三七(一九〇四)年生まれ。その姿を偲ぶにつけ、胸を奮わされた。明治生まれの女は、いやほんと、並大抵でなく凄い。
 このとき拙稿に向かいながら思い出される女人の詩があった。当方偏愛、指折りの詩人・永瀬清子。明治三九年生まれ。じつはその代表作とされる「だまして下さい言葉やさしく」という一篇がそれだ。これがつぎのようにも男衆殿にたいしてやんわりと、「だまして下さい……」そうしていただければと繰りかえし、おねがいですからと卑下半ばへりくだりわたしはと……。
 
それを力に立ち上りませう。/もつともつとやさしくなりませう。/もつともつと美しく/心ききたる女子になりませう。(『永瀬清子詩集』昭森社 一九六九)
 
 幸田文、それではないが、どことなくそんなような気性を持つ女人ではなかったのでは、ないだろうかと。なぜかそのように思うことしきりだった。
 文、清子。ともに明治、大正、昭和、平成と四つの時代を「美しく/心ききたる女子」として生きぬいた。そしてときにこの両人にくわえていま一人、明治生まれ女人繋がりで、それとこちらに浮かぶ名があったのである。
 往古より女人禁制だった立山(註・明治五年、法令上、禁制解禁なるも依然と女性による登山記録はほぼ皆無)。そうではあるが掟破りよろしく敢然といおうか、どういうか、シレッともして登頂なされた女人さんがおいでだ。



 村井米子よねこ(一九〇一~八六)。神奈川県生まれ。文の三歳上。草創期の女性登山家・随筆家。父・村井弦斎(文久三・一八六四~一九二七)の長女。
 弦斎は、生活全般の改革を標榜する開明的な作家・食養研究家。明治三六年、ベストセラー『小説食道楽』を刊行。現在読める代表作に『酒道楽』(岩波文庫)、『台所重宝記』(中公文庫 村井米子編訳)、『食道楽』(中公文庫 村井米子編訳)他。弦斎、断食、自然食を実践、また竪穴住居に住むなど、奇人、変人扱いされる汎自然主義者だった。
 このことからもまことに、この父にして、この娘ありの、ことわりなるというあかし。ついてはまずもってつぎの一文からみることにしたい。米子は、なぜ女のじぶんが山に登るのかと自ら問うてこう答える。それこそやんわりと「美しく/心ききたる女子」らしくひかえめにして。
 
「おとこもすという日記というものを、『女もしてみん』とて……土佐日記は書き出されている」
「山もまた、『女もしてみん』という反撥力のある女性から、登りはじめられたと推する」
「山を想い山を愛する心持ちに、男女の別はいらぬとおもうに、…(略)…、仏教伝来してよりの思想は、わがままにも女人禁制の山々まで作った」(「婦人と登山」『山の明け暮れ』第一書房 一九四二)
 
「女人禁制」。男衆どもが作ってきたそのいわれない「わがまま」への飽くなき挑戦。それこそが数多くはない「反撥力のある女性」の高峰へのまず第一歩であった。
 米子、生まれつき恵まれていた。幼時、神奈川県平塚町の広大な松林の家に育ち、明け暮れに秀麗な富士の高嶺を眺め過ごした。
 大正六(一九一七)年、一六歳、跡見女学校三年生、富士山初登頂。同行は弟に爺婆。まずはこのときの紀行からみることに。一世紀以上前、「白衣の行者の時代」だ。でなんともまるで夢みたいなおはなし、八合目の石室で、「先達にたつ、一本歯の下駄の白衣」(!)という出で立ちの女行者に金剛杖でとめられる。なんと「もしもし、そんなに急いでのぼっては疲れますよ」だって(註・富士山は立山と同年、禁制解禁なるも女性登山は稀少。参照・女性初の登頂は行者「たつ」こと、高山辰、天保三・一八三二)。
 憧れの富士。いまだ気象台(設置 一九三六)もない、「お社と、石室しかない」、神々しい頂上。僥倖にも米子、いやはやこのとき「ブロッケンの怪」に出くわしているのだ。びっくり少女は歓声をあげた。
 
「光のしずくをふり散らしながら、東の海から昇る御来迎……夏の日輪の赫々たる出御は、この天地が、いま初めてわが前に生れ出る心地がした。げにも、天上界のおもい……。/山岳信仰、太陽信仰を生むこころの芽を、少女の胸に芽生えさせた。原始信仰であり、世界中の素朴な人の心にやどる神のすがた……神秘の扉がひらかれた」(「富士山とわたし」『山愛の記』読売新聞社 一九七六)



 こうなるともう山はやめられない。そうして富士登山の翌年夏のことだ。米子、木食行者を尋ねる父・弦斎らに同道して木曾御岳山に登る(参照・『マタギ食伝』春秋社 一九八四)。
 ついでまた翌夏すぐである。このお転婆さんは、弟や女中を供に、立山を目指す。立山は、なにしろ厳しい女人禁制を守ってきた。米子、つぎのようにもその紀行の冒頭はじめざるをえない。

ここから先は

1,415字

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?