メモです(20191016)

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漫画の文字について書いたけど、こんなことは気付く人は勝手に気付いて実践する。もし漫画をインターネットに公開してたら「思ってるより読んでもらえてない」とか、すぐに数字でわかる。だから基本的にこんなアドバイスはいらない。

独創的なものは、独創的なままでいい。

で、

たとえばアール・ブリュットとかアウトサイダー・アートっていうのは、別に作者の生い立ちや状況がどうだとかは関係ない。作ったものが既存の美的枠組みから独創的に離れて輝いていれば成り立つ素晴らしさだ。発表がたくさんできるようになった世の中で、音が割れてるけどとてもいい曲、編集ゼロで舌足らずだけど面白いYoutuber、いろいろある。こういうものに接していると、いろいろな角度から創作を楽しんだり、作成・表現という作業そのものについての思いがいろいろ広がる人も多いと思う。それが芸術や表現への理解に展開する場合もいると思う。そういうジャンルは音楽でも美術でもたくさんある。

で、

普段から「お金を払って娯楽漫画をたしなむ」多くの人は、苦労してまで読みにくい漫画を読まない。仕事として描いていたり、多く読まれることを優先順位の高い目的にしているなら漫画はその問題をクリアすべきかもしれない。だけどそうでなければ、読む人が少ないことはあんまり気にしないで良いと僕は思う。

たとえばある芸術が、作られた背景や表現の内容を理解するのが簡単じゃない場合、それだけで味わえる人は少なくなる。

たとえばある芸術を解釈した100人が考えに影響や刺激を受け、言葉やふるまいの小さな部分に変化を起こし、その100人の周囲にいる2000人の認知に何かを残す。そして次に、微弱であれ、その周りにいる40000人に。800000人に。16000000人に。

それは横の広がりだけではない。時系列的に、次に現れる人間たちにも。過去にも影響できる。何かの登場によって、古い芸術や過去の人間の言葉や行動に新たな解釈や価値を見出せるようになることは珍しくない。

マーケットが求める表現、「今の大勢に喜ばしい何か」だけではなく、誰かの既存の想像の外や、新たな視点、明確・明瞭ではない違和感やノイズ、希少な声、そういうものを最初の100人、10人、1人(自分自身のみ)にでも表出させるのも表現の大きな命だ。

だから芸術には、多くの人には何の価値も無いように思えるものでも、強い不快感を与えるものでも、背景をよく理解しないと意味がわからないものもたくさんある。それは、感受できる最初の5人が、その次の100人のために選定して保存したり解説したりする。その後の2000人や40000人は、その恩恵を受けることができる。拡張された感性や概念のあり方、新しい娯楽やコミュニケーションの意味合いや方向性、予定よりも早く防げる衝突や災厄、あらゆる形で。

僕は、芸術や表現や文化に税金を投じ、きちんと芸術や表現や文化としての選定ができる人たちが色々な方向性でそれをおこなえる社会は幸せだと思う。その金額は他のインフラや事業を考えた上での配分になるから、あまりに経済的に逼迫した社会で多くを望むのは難しい。だが「利回りの良さ」や「大勢のニーズ」みたいなものとは別基準で保護・支援していくべき領域であるのは明確だ。

(こういうことに興味があれば何も読まずに今の視界で考えるよりも、専門的な本で、ある程度インプットを試みて欲しい。そういう人が社会の中で発揮できることは少なくないと思う。こういうことを考えることに人生をかけた人がいて、それを読んだ自分の視界に新しい要素が加わることは、良くないことではないと思う。)

結局なに?

その社会に住む人たちに表現という概念があまり理解されていなかったり、その周辺についての基礎的な教養がなかったり。なにか表現を始めた人の視界に、商業娯楽的な目標しか見えないような環境だったり。本当は目指していないのに、知らないうちに、そういう価値基準の体系の中で付き合わされてることって、少なくないんじゃないかな?というのを僕はよく考える。

それで「すこし低い孤高」というのをラショウさんと書いたけど、まだ新たに考えたいことがたくさんあるなと思う。