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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第210回 あとがき

 その後、人生の収穫期に入っている浄とセシリアは今も元気、げーんきで、一家に祝い事が生まれる度に、「いい年こいて」、歓喜のポーズで一輪車に乗る祝祭の日々を過ごしています。義母は笑顔の写真になって、おとーさんの横に並んでいます。家族は人数が増えて、3つの大陸と2つの島国、そして1箇所の座敷牢に広がって住むようになっています。
 ふたりとも耳もだんだん遠くなりつつあって、「これは第3番だな」「ち・が・い・ま・す、浄。せいぜい第3番でしょ」というやり取りをしています。セシリアが浄から強奪した揺り椅子に座ってはセーターを編むと、片方の袖がなぜかうんと長くなるので、浄は「これシオマネキにプレゼントするのか?」と聞いていたりします。セシリアの反応はここには書けません。1ニャン去ってまた1ニャン。1匹だけ残っている猫は、サングラスをかけて立ち上がることもなくなり、暖炉の上でこの夫婦をシカトしながら欠伸をしています。夢を見ているのでしょうか、時々ニャポーンの前足付きをしたり、ニャカンが未遂に留まったりしていますが、一匹麻雀では他の3辺に対戦相手は見えません。そのうちみんな天国で揃えば四ニャン刻となるでしょう。
「ニャローン」
 浄は早口で笑い上戸の孫たちにそろそろ麻雀を仕込んでやろうと作戦を練っていますが、セシリアは水際で阻止する構えです。どちらが優勢かあなたには想像できますね。ただし、麻雀だけは譲れないとばかりに、浄が妻との覇権争いに打って出る可能性はゼロではありません。浄は自分たち夫婦の場合、攻撃は最大の暴挙になることを知らないのでしょうか。
(「なめンなよ、セシリア」「あら、なあに、Dr. Maruhara Jonosuken?」)。
 庭の木々が一層大きくなっているふたりの邸宅に至る旭ヶ丘のなだらかにカーブした坂道にエゾリスたちが正装で現れて、下から上に向かう順番でチューチュートレインダンスをしたり、幻想的な光を放つ雪洞に照らされながら電線音頭に興じたりしていたら、それはきっと丸原=ジェファーソン一族や仲間たちの慶事の印なのだろうとご推測ください。最近ではリスたちによるバイオリンの演奏も伴うようになっています(「キー、キー、キー」「やー、めー、てー」「キッ」)。艇庫の人体標本にも聞こえるでしょうか。
 砂浜の多くは緩斜面ですから、世界中に硯海岸に似た海岸がありそうです。古石狩湾の汀が現在の浄の実家のお寺辺りにあった時代には、原始人のカップルが地元産のキャビアを食べながら、木魚のビートに合わせて波打ち際で夕陽に向かって手と手を合わせてハート型を作ってみていたでしょうか。
 人類は何度も危機に瀕し、その度にそれらを乗り越えてきました。現在の複数の禍もいつまでも続かないでしょうし、また、続けさせてはなりません。大人の我々は、子どもたちを守り、育てなければなりません。昨日の世界を知っていた我々は、現在を克服し、明日に願いをつなぐのです。あなたは今度の夏、あなたが知っているあの海岸でどんな笑顔に会えるでしょうか。何個のコルクが青空に向けて発射されるでしょうか。
 2021年は快風丸が石狩に来てから333年でした。乗船してきた水戸黄門が上陸に際して印籠をかざしたか否かは不明です。ご老公、Sei herzlich willkommen in Hokkaido!

 また、『アンナ・カレーニナ』の単行本が刊行された1877年の前年である1876年、すなわち、京都から火の手が上がり箱館で土方歳三らの戦死を伴って終結した戊辰戦争のわずか7年後、ルノワールが『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を描いたのと同じ年に札幌農学校として創立された北海道大学は、2026年に創立150周年を迎えることとなります。
 以下の15段落ほどはおまけですので、読み飛ばして先に進んでいただいて結構です。暫時、文体を変え、昔、浄が三ヶ月湖のどこかに落としたはずの金の斧を探しに潜水してきます。湖面が氷結するほど水中に長居はしませんので。

 ハルニレの大木群の緑陰を歩んでいる学生たちよ。諸君はさらにその50年後、2076年の創立200年祭=The Bicentennial Jubilee of the Foundationに参加できる可能性が十分ある。それまでに著者の母校でもある北海道大学を世界十指に入る大学に引き上げていって欲しい。1912年に作詞・作曲された恵迪寮寮歌『都ぞ弥生』の合唱に著者も草葉の陰から魔法で参加いたす所存でござる。その時に、横山芳介君、赤木顕次君とお会いできればこれに勝る光栄はない。
 豊平川から左手に分かれてコンサートホールの裏、中島公園の西側を北に流れ、すすきのの南から創成川の区間につながっている鴨々川のように、この物語の最後の寄り道として、恵迪寮での思い出を振り返っておきたい。ただし、他の複数の寮にも遊びに行ったことがあったので、そちらの方での記憶と混同している点があるかも知れない。
 著者はかつて教養部の西裏にあった木造の寮内に何度か入る経験をすることのできた世代である。ただし、中で泊まったことはない。その建物群は老朽化で撤去されてしまい、今はない。基本的に地震のない欧州では、ローマのパンテオンを例に引くまでもなく、人々は建築物はほぼ永続するものと前提し、そう信頼して生きている。ヨーロッパ人は、自分の曾祖父母と同じ建物の前で写真を撮ることが可能な場合も少なくない。ところがこの国では、自然災害対策でやむを得ない場合以外でも、子どものころからの人生を包んで支えていた物的な環境が次々と取り壊されて別物に置き換えられて行く。
 入学後間もない「桂の新緑」が「萌し」ているころ、その日になって休講の黒い札がぶら下げられた科目の時間帯に、先週はルカーチの話を聞かされたんだったよな、と床がスロープの大教室での講義を思い出しながら、同じクラスの寮生に誘われて初めて玄関から中に入ってみた。寮は4つの棟からなっていた。それらの中を探検しながら奥に進んで行くと、水を張ったドラム缶が角に置いてあり、中でメダカが何匹か泳いでいた。水槽が買えなくてドラム缶に入れて飼っているのかと思ったら、友人が、「これは防火用水だよ。そのままにしておくとボウフラが湧くんで、魚を入れて食わせているんだ」と説明した。
 2階に上がると、廊下を我々と逆の方向に短距離走で世界記録を更新できそうな速さで走って行く学生がいた。片手には箸が見えるが、もう片手には今や使っている人はまずいない計算尺らしきものを握りしめ、片方の足はスニーカーだが、もう片方は長靴を履いている。握っているのがバトンやリボン付きのスティックだったら、それぞれ、寮の廊下をコースとした屋内リレーの競技中か、新体操の部員としてレオタードに着替えて手さばきの練習をしている最中だった可能性もないわけではなかったが、いずれも考えにくかった。出入り口に向かうのだろうが、そのままの勢いで突き当たりの壁の分子と分子の間を巧みにすり抜けて外に飛び出す特技まではなかったらしく、方向転換をした。と思ったら、階段をほんの何歩かだけで駆け下りる音がした。いったい何をそんなに慌てているのか。
 横の友人の方を見て、「どした、あの男?」と聞いてみると、「聞かなかったか、今、お電話ですってスピーカーの声がしなかったか」「確かにそう言ってたな」「外からかかってきた電話が男からだと、何号室の誰々くん、電話です、という呼び出しをする。だけど、女性からだと、お、を付けて、お電話っていう習慣になってるんだ」。なーるほろね。ちなみに、当時寮には電話は玄関を入ってすぐ横の部屋の一本しかなかったのである。この日は結局どの部屋にも入らずに寮の外に出て、次のコマの教室に向かった。
 その後、40日もの長い無為な夏休みを挟んで数ヶ月があっと言う間に過ぎ、教養部にいるのに一向に教養の身に付く気配もないまま、「豊かに稔れる」収穫の秋になった。
 肉と粒あんの鯛焼きと一升瓶を手土産に、またこの木造寮に今度はひとりで潜入して、呼ばれたある部屋のドアを開けようとすると、籐製らしい中空の枕の上に仰向けになってピラティスごっこをしていたイヌが脚を休めて好奇心丸出しの顔を見せ、しきりに鼻先を舐め始める。目の周りには銀色の塗料か何かでメガネが描かれているが本犬が気付いているか否かは不明であり、首には首輪ではなく蝶ネクタイが締められている。ここは4人と1匹部屋なのであった。その異(様)空間に足を踏み入れる前に思わず英語が出た。But, jeez, just tell me; when did you guys and pooch clean and tidy up this room last..., or perhaps ever? 
 隣のベッドの下からは、布団の裾を掻き上げてヒトが酸素不足の大トカゲのような仕草で這い出してきた。舌をピロピロさせてはいない。肩甲骨の下辺りまで届こうかという長さの髪は落ち武者のようになっている。体験学習のゴボウの収穫を思い出した。その視線は初対面で警戒しておかなければならないはずのこちらの顔ではなく、肉と鯛焼きと酒に一途に向けられていた。あれほどの集中力があったら、人生のほとんどの目標は達成可能であろう。この部屋では、イヌとヒトが食い物の匂いを巡って嗅覚を競い合っている様子だった。廊下の遠くから呼び出しのアナウンスが聞こえ、少ししてから誰か知らない2人が3秒ぐらいのずれで走って行く音がした。何も走らなくったってさ。あっ、転んだ。
 4つあるベッドの周りも床も壁も天井もドアも机も本棚もその他すべて、自宅生の想像を絶する、まるで密林の奥の古代遺跡の発掘を途中で断念して撤収を始めた現場のような有様の再現困難な室内環境で、そのまま「博士犬」をいじったり、時々、手や腕を噛まれたりしながら、人生とは何ぞや、などという空回りの議論を続けていると、ひとりが立ち上がって縦窓を押し上げ、部屋の外の暗闇に向かって「一人防火演習」(solitary fire prevention drill)を始めた。Bier macht Wasser.
 すると、つられたのかワンコも何かを欲するかのような動きをしたので、別の学生がもう片方の窓から高めの仰角で放り出してやった。子犬時代よりずっと重たくなっている。腰に来るなあ。肘も痛い。
「お前は何貫目のワンコじゃ?」
 空中で
  シェーをしながら
   虹描く
 少ししてイヌからモールス信号の吠え声で「で・ー・た・よ・ー」という合図があった。その寮生がオオカミの遠吠えの真似で応えながら立ち上がり、そのイヌを部屋の中に回収し、ネクタイを外して、夜光塗料を塗った首輪に替えた。
 やがて深更に及び、途中から入り込んで来ていた他の部屋の寮生たちとも一緒にラッパ飲みしていた酒はとうになくなり、腹が減ってきて、どうやって入手してきたのか分からない裏の農場産の男爵イモや昔主流だった品種のトウモロコシを茹でたてで上にバターの厚い塊を乗せて出されて、指先やくちびるに火傷しながら食べたり、追加で、表面を洗った形跡のない金属の洗面器で作ったインスタントラーメンを啜ったりしていると、予告なしに廊下を通ってストームの声が近付いてくる。その横をまた誰かがドタドタ走って行く。
 ♪ 醒めよ迷ひの夢醒めよ 醒めよ迷ひの夢醒めよ。
 明日1講目に数学の試験のある奴が目を丸くする。犬が首輪を外そうとして奥目になる。
   ♪ 札幌農学校は蝦夷が島
      熊が棲む。
       荒野に建てたる大校舎コチャ。
 今度は向かいの部屋の縦窓が2つ相次いで開けられる。慣れているのか、部屋の中から何かが飛び出してきて草むらにばさーっと下りる音がする。
        ♪ エルムの樹影で真理解く
           コチャエ コチャエ。

 文体をここで元に戻します。湖底で斧は見つかりませんでしたが、その代わりに水草の揺らぐ影のそこかしこに隠れていた、著者が19歳、20歳だったころの日々のきらめく断章数片を拾い集めることができました。この迂回水中探訪をもって、旧河川区間に逸れた話題から主流に戻るのも今回が最後と相成ります。
 石狩川は、下関条約の3年後、日露戦争の6年前、ベルリンのカール・ベンダ教授がミトコンドリアという名称を考案した1898年の春先から洪水を繰り返した末、9月7日に大氾濫を起こしました。この年の2月15日に作家・井伏鱒二が生まれています。著者の父方、母方両方の先祖がこの一連の水害で被害を受け、日本刀、甲冑、巻物、古銭、その他の江戸時代を偲ばせる財産もこの時に喪われてしまいました。それぞれの家庭で使っていたであろう硯がどのような形状だったかも分からないままです。その後1918年から半世紀にわたり、大水の被害を防ぐために流れを短絡する捷水路(しょうすいろ)が約30箇所で作られ、川は約60kmも短くされました。これは、東海道五十三次で、日本橋の次の宿場が品川宿ではなく、一気に鎌倉のさらに西の藤沢・平塚間付近になるようなものでした。浄の医歯薬大は、唯一残された大きめの三ヶ月湖に隣接して創立されたのでした。
 水が海に帰りたがっています。川は今日も流れを止めず、時もまた同様です。サケは川を遡りますので、本作品では著者もその流域の中心にある旭川まで溯ってみました。寛容にして、文化を重んじ、芸術を愛好する旭川やその周辺の皆様は、この物語の中の常盤公園事件があくまでも虚構のひとつであると受け止めていただけることでしょう。『竹取物語』に関係している月(The Moon、ムーン)は、毎夜、そのさらに東の大雪山にある石狩川の源流上空を通過して西に向かっています。石狩湾に接近していたのは浄たちだけではなく月もだったのです。
 その月は、途中無数の水鏡に巻物を口に咥え両手の人差し指を合わせてドロンッと分身の術で付き合いながら、その石狩川だけでなく、札幌市内の北西部を北向きに流れ、別の川と合流して同じく石狩湾に注いでいる星置川の川面にも映えます。
 海辺に近い星置一帯には、かつて鉛直上方に直線的に伸びる松の林が広がっており、暑い日々が遠く過ぎ去った後の秋分の日のころに、冷えてきている夜風にさらされながら見上げる月には清澄な美しさがありました。夏は終わってしまったけれども冬にはまだ間がある、そんな時期の静かな眺めです。その月に代わって、人間の著者が夜な夜な月の光を浴びながら手漉き和紙の巻物に墨書にて縷々物語を紡いでみました。
 浄のお寺に長年言わば執事として仕えていた寺務長さんは宇佐義(USA-GI)という風変わりな姓でした。月から密かに派遣されてきていたのでしたが、浄の祖父・浄壽の四十九日が終わった後の満月の夜に本堂で木魚を一度だけ叩いて、その上に舞台にマイクを置くようにpyropeの数珠を乗せ、「これで子ウサギの時に命を救っていただいたご恩への義理は果たしましたので、『義』を外して元の名前に戻ります。地球よ、さらばでござる」と笑みを浮かべ、Vサインをしながら双子の兄弟のウサ吉の待つ故郷に帰って行きました。地球上ではちょうどお盆の時期でした。月の表面では、久し振りに再会した二羽は浴衣に着替え、竹の縁台に座って肩を寄せ合って団子になり、地球見団子を食べて、吹雪音頭の輪に加わったのでした。いつでも人目を忍ばずに耳を伸ばしっぱなしにしていられる安堵感は、それはもう大きかったのです。
 著者が使っている硯箱は、江戸中期に作られ、ある古刹に算額と一緒に奉納された後、明治時代に骨董店に売却された稀少品の蒔絵の堅牢な漆器です。この作品を書き上げてから、洗って水気を拭き取って乾燥させておいた硯と墨と筆をその中に収めようとすると、机の横の障子に細めの月が映っているのが目に入りました。ミュージック、スタート。静かな夜空に『月の光』が奏でられます。するとどうでしょう。タイプライターを打つ硬質な音とともに、月のすぐ下に、次のメッセージが現れたのです。
 The Moon reminds you the next stop is Hoshioki!

次回は、『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第211回 「あと(あ)がき」 https://note.com/kayatan555/n/nef8585ca9804 です。

This is copyrighted material. Copyright (C) 2018-2024 by 茅部鍛沈 Kayabe Tanchin « Kayatán », 新 壽春 Atarashi Toshiharu. Sapporo, Hokkaido, Japan. 石狩湾硯海岸へ接近中は、新 壽春の登録商標です。All rights reserved. Tous droits réservés.

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