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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第198回 第164章 気の進まない弁護士事務所に入る

 かつての湯島から和光市に移転してすでに数十年経っている司法研修所での修了を前にして検事任官を望んだが、年齢等を理由に(性格だって悪いぞ、あいつ)難色を示されて果たせず、札幌に戻ってきて弁護士登録をした。弁護士会の会員数は以前記憶していた数よりかなり増えていた。大通公園に面した人気の法律事務所に就職できず、市内の地味な一角にある雑居ビルの日当たりの悪い事務所に入った。
 初出勤日に、下の階の治療院から戻ってきた所長は、消炎鎮痛剤の臭いを漂わせながら蓋の欠けた碁笥を持ち出してきて応接用のテーブルに置いて、「まずは一局、どうです先生」と誘った。石が黒と白ではなく、黒とブラックなので見分けがつかない。白とホワイトでも基本的に同じ困難を抱えただろうが、眼がちかちかして、黒・ブラックよりも付き合わされるのがずっと辛かっただろう。
 以前、初手を打ったばかりの対戦相手に、「キミの負けだね」と宣告した登場人物を描いたマンガがあった。この人物は、どうしてと尋ねられて、先手側の打った碁石の位置を指差した。すると、石は2本の線の直交する交点上ではなく、正方形に囲まれた真ん中に置かれていた。兄の囲碁の実力はそこまで低くはなかったが、せいぜい中学生の昼休み時間に教室内でちょっと打つ程度の素人並であった。それなのに、就職先の事務所でいきなり黒黒対戦を仕向けられては手の打ちようがなかった。対戦相手同士の碁石が同じ色では、自分が碁盤のどこに石を置いたのかを全部正確に把握しながら勝負しなければならないため、尋常ならざる記憶力と集中力が求められるのであった。しかも、依頼者が来たり電話がかかってくるたびに、対戦は強制的にご破算になる所内ルールだった。
 実は肉眼で同じ色に見えていた碁石には表面に特殊インクが塗布されており、対応処理のされたレンズで見ると、はっきりと敵味方が判別できるのであった。受付の秘書がそのメガネを持ってきて所長に手渡すと、この所長はレンズの奥でにやりと笑うのであった。何ーこのしと、やな性格だこと。新人は一方的に不利に扱われる。社会における非対称性を如実に示す一例であっただろう。しかも不思議なことに、所長の旗色が悪くなりそうになると「間違い電話」がかかってくるようになっていた。この条件で誰が勝てるだろうか。ところが、である。私の兄はこの不当ルールの下で所長と7回対戦して、5勝2敗で圧勝してしまった。負けたのは最初の2回だけである。兄がそこまで優秀とは弟の私にも想像がついていなかった。この点について兄と話をしてみたところ、兄は、「オレは記憶力が良いのではなくて、忘れる能力が弱いんだ」と宣った。それって、自慢? Mein Bruder? オランダ語だと mijn broeder?
 この所長には本来の法律業務の依頼がたまにしか、そう、盆と正月ぐらいにしか来ないので、兼業している指圧師としての収入の比率の方がずっと高くなっている始末であった。なるほど贅肉のないからっとした肉体をしているように見えた。このような営業形態を「第二種兼業弁護士」業という。

第165章 共同事務所開設 https://note.com/kayatan555/n/n8614214d1214 に続く。(全175章まであります)。

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