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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第177回 第143章 ふたりの医師、ひとつの意思へ

 オリーブの実は3粒目を食べた。それもセシリアの横浜の実家の庭で育てていたものである。
「マジョルカ島原産のよ、このオリーブ。なかなか大木にならないわね。庭に露地植えしているのに、空気忖度自己規制盆栽ってところね。誰に遠慮してるのよ。引退した叔父さんが、もう肌寒いスコットランドなんかに住んでいられないって言ってあの島に移ったの。投資をうまくやっているわ。ほとんど時間を使っていないのに、引退前よりかえって年収が目立って増えているって変よね。でも、太陽がいっぱいで楽しいはずなのに、今度は頻繁にスペイン人やドイツ人なんかの悪口を書いてくるわ。Engländer haben immer etwas zu kritisierenなのよ。それにしても、地中海の歴史って魅力的よね。フェニキア人の船に乗ってみたかったわ。ブローデルもフランス語のまま読んでみたいわね」
 横浜と札幌では気候に大きな差がある。札幌で栽培できるのはリンゴであって、ミカンでも、オリーブでも、ましてドラゴンフルーツでもない。しかし、その両方で共通して育てることができるものがひとつある。それは、(何である?)愛である。今回のクルーザー名に決まったKoharu Liefdeのliefdeも、オランダ語で「愛」の意味である。東京湾に面して藍の時代を過ごしていた隠れ餡蜜剣士の拙者に、ついに故郷・札幌で愛の時代が始まろうとしていたでござる。ジャーン!
 2人の再会後間もなく、ボクは所属学会の打ち合わせで東大柏キャンパスに出かけて行くことになった。東京へ出向く用事には波があり、最近は以前より上京する機会が減っていた。新潟と高知と福岡には結構行くようになっていたが(土佐の高知と言っても、別にお面をした僧侶たちに混じってかんざしを買いに行っていたわけではない。あそこの海はいい。松もぜよ。はちきんにはまだ出会っていない)、そういうわけで、なし崩し的に随分広く大きくなってきている羽田空港の最近の変化にも疎くなっていた。コンビニに外国人店員が目立つようになってきたのに気付く程度だった。今回の出張では、セシリアも実家への里帰りも兼ねてボクに同行してくれた。気性からすれば、本心では戦闘機に搭乗して自分で操縦してマッハ2ぐらいですっ飛んで行きたかったのだろうが、まさかそうするわけにもいかなかった。
 ボクの柏行きを知った彼女の父は、ボクが後にも先にも一度しか足を踏み入れたことのなかった横浜のあのお屋敷に招いてくれた。時が経てば、恥も薄れる。
 Jefferson邸の庭の木々は二回りも大きくなっていた。門を入った右手の壁沿いには、つるバラが盛んに枝を伸ばしており、車寄せの手前のバークを円形に敷いた地面に植えられたナツツバキはちょうど白と黄色の花を咲かせている最中だった。成長を低く抑えたキンモクセイ、沈丁花、千両、ドウダンツツジの茂みの間を進み、芯止めをしたタブノキの大木から数本の太い枝が横に長く伸びて頭の上に半ば被さっている玄関前のテラコッタの上に立つと、あの日訪ねてきた遠い昔の記憶が蘇ってくるのだった。ボクは外国語を専攻する大学1年生に過ぎなかった。あの時、厩のようなラクダ舎からはちょっとイヤな臭いが漂ってきていた。馬術部の臭いに似ていた。ボクは緊張の極みで、ひとりでこの厚い扉の前に立っていた。あの時の心臓の鼓動の速さは、坂を上がって来ていたからだけではなかった。でも今日は横にボクの手を握っているもうひとりがいる。あの日はドアの向こう側にいた彼女が今はこちら側に回り込んでいて、ボクはその女性と腕と腕を触れ合わせていたのだ。
「大丈夫よ、浄。わたしがついているわ」
(「うふふっ、いっぺん言ってみたかったの、こういうの、わたし。結婚って、おままごとの完成形よねえ」)。
(NG特集みたいなカップルも一杯いるぞ)。
 東京の語学生と医学生だったティーンエイジャーのボクらは、30代に入り、ふたりとも札幌の医師になっていた。
 その初訪問のときの様子を思い出して、「ああそうだった」と玄関前で両肘を張って、チアリーダーのように腰をブンブンと横に振ろうとすると、セシリアが黙ってボクを制して、「次の停車は(港からの突然の霧笛で聞こえず)よ! Tsugino teisha-wa(inaudible by a sudden foghorn from the harbor)-yo! (=The next stop is […]!)」と、月夜の短い衣装のポーズを決めた。
(そ、それって?!)。
「開け、パパ!」
(長「万!」部)。
 ボクがそのポーズのことをセシリアに尋ねる間もなく、重たいドアが内開きになり、中からその父が両腕を脇から横にゆっくりと上げながら顔を出した。ジャーン。エーゲ海の風を感じる。
“Hi, welcome home, Cecilia, my son, why don’t you come on in?” 
(お帰り、セシリア、我が息子、さあ、入って)。

第144章 横浜再訪 Yokohama wiederbesucht https://note.com/kayatan555/n/n1892f8768f66 に続く。(全175章まであります)。

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