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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第54回 第44章 横浜、山の手、危険な予感

 籠目マリーナを出航し、勝浦に1泊して帰港した二日間で、ボクは初対面のセシリアの父親が深く信頼に足る人物であると判断していた。そうしていたところ、その翌週、この父親本人から糸電話があって、初めて横浜・山手の自宅に呼ばれたのであった。しかし、その際にはセシリアが終始心配顔を崩していなかった。
「あのね、浄。うちの父、お酒が中ぐらいに入るとまったくの別人に変わっちゃうの。最初に会った日に言ったでしょ、わたし。まさかとは思うけど、十分気を付けてね。危なくなりそうだったら、お邪魔しましたって言って、さっさと田舎に帰ってね」
 田舎は余計だったが、あれだけ頼りがいのある紳士がアルコールの摂取量によって変貌してしまうとは考えにくかった。と甘い素人予想をしたのは、ボクの一家にも一族にも酒で乱れる人間など一人もいなかったからである。身近に酒で問題を起こす人間が皆無だったのは大いなる幸運であったが、そうした恵まれている人間にはその実感が伴わない。アルコールらしきものが我が家の食卓に上がるのは、正月のお屠蘇ぐらいのものであった。普段は台所に料理酒が少量置いてあるだけだった。普段は祖父も父も一切酒を嗜まなかったのだ。祖父はドイツ時代にKneipeなんかに誘われなかったのだろうか。一人でいるときにもワインもビールも飲まなかったのだろうか。もしそうならもったいないことをしたのではないのか。いや、そうした出費を極力抑えて、1冊でも多くドイツ語を中心とする文献を買い集めていたのに違いない。
 書店は魔窟であり、いったんその中に入ると、本好きの人間の有り金はことごとく消えて店外に出てくることになる。スーパーに行く前には何か口に入れてからにした方が安全で、本屋巡りに出かける際にはクレジットカードをうちに置いたままにしておかなければならない。
 横浜に外国人たちが定住し始めたのは幕末から明治にかけてのことであった。日米修好通商条約で開港場と定められたのは街道筋の神奈川だったが、輸出入の主導権を確保しようとした幕府が突貫工事で港湾施設を建設したのは、5キロも南東の半島部にあり、当時100戸程度しか人が住んでいなかった半農半漁の横浜村だった。ここは平戸に対する長崎のように、沿岸の水深が神奈川湊より深く船舶の停泊に適していた。また、途中にある山が海に迫っていて連絡する陸路が不便であったため、テロから外国人を守るのに好都合でもあった。設けられた関所から関内という地名が生まれ、その東半分の山下居留地に加え、人口増により山手にも居留地が設けられた。幕府は外国人らに対して一種の新規出島を指定して、その中に遠ざけて住まわせておきたかったのだが、1世紀半前のそのような思惑とは正反対に、現在、丘は高級感溢れる一帯となっている。
「横浜って言ったら、ハイカラな都会ずら」
 いしだあゆみの
  声が聞こえる
   ヨコハマ
 こうした傾斜地の一角にボクが招待されたジェファーソン邸は建っていた。平地にも坂にもそれぞれ良さがある。2階建ての紺桔梗の壁に白枠の縦窓が整然と並んでいる。一見して立派な作りである。まず、エントランスに観音開きの高い鉄の扉があり、その頂点には金色の松かさが鈍く光っている。敷地を囲む石塀の上には防犯用にビール瓶を割って逆さまに埋め込んである。中に入って通路を歩いて行くと、ラクダの尻尾が見えた。セシリアのペットである。もう少し小さな動物の方が餌代がかからなくて良さそうなものだが、目立つことは確かであった。下手をすると、この一家を狙い撃ちにした市の条例を新規制定されて、飼うことを禁止されてしまいそうだった。何しろ、こんな派手な動物を散歩させると人が集まりすぎるし、車道を移動すれば交通渋滞になってしまう。ポニーのような大きさにしかならないミニチュア・ラクダというのはいないのだろうか。さらに小さな体長20センチほどの超小型ラクダが見つかったら、マリ帝国のマンサ・ムーサの一行がメッカ巡礼のために大量の黄金を運んだのを真似て、幼稚園の砂場を横切る隊商ごっこが流行って大人気になるだろう。♪ トンブクトゥまでは何千里?

第45章 ジェファーソン邸(前半) https://note.com/kayatan555/n/ne8b491e372fc に続く。(全175章まであります)。

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