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だれも知らないこと

ばさばさと羽音がしたときには店頭の菜花をくわえたトビが舞い上がり、八百屋の親父は「あー!」と叫んでしばらく腕を上げ下げするしかなかった。家と家の屋根の間をかすめるようにトビは大きな羽根を目一杯広げ、町工場の煙突のほうへ上昇していく。若鳥をなくしたばかりの連れ合いのところへ菜花を運ぶために。そのことを知るものはだれもいない。

土手を黒髪の女の子が自転車で走り抜ける。首にちいさながま口の財布をさげている。なかに入っているのは飼いねこのヒゲだ。見ることもさわることもできないねこだけど、これはいつでもいっしょにいられるおまじない。女の子はこのことを大切な秘密にしている。

緑の屋根と白い壁のおうちの門に、椅子が置いてある。そこはおばあさんの特等席だった。椅子はいつも赤いポストの脇に置く。ポストはおばあさんが手をかける台になる。庭の木々と草花のあいだで、おばあさんはなにかを待っていた。けれどなにを待っているのかはわからなかった。なにかではなくて、だれかを待っていたのかもしれない。けれどだれもなにも言わなかったし、おばあさんもだれかに訊いたりはしなかった。


*もりのこと@西荻窪で展示販売された、涙ガラス制作所さんの作品。ちいさな涙型ガラスの綺麗さを思い出につむいだお話です。


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