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私の新聞奨学生生活⑶過労・うつ・自殺未遂・産婦人科・退会編

2年目の終わり頃から、私はだんだんおかしくなった。

身体が思うように動かない。配達後にお腹空いているはずなのに、ご飯を食べたくない。疲れているはずなのに寝付けない。なんだかすべてがかったるい。

自分の立つ地平線がどんどん沈んでいって、いつもだったらとても遠い深いところにあるはずの「死」が地続きになる。毎晩、目線の先にある「死」の野原を眺めながら、つかの間の眠れない夜を過ごした。

そうして6月のある晩、私は薬を飲んだ。手持ちの鎮痛剤、風邪薬、全部。70~80錠はあっただろうか。薬を大量に飲めば死ねると思っていた私は、1錠飲み込むたびに、「ああ、これでやっと楽になれる」と思った。

甘かった。意識はもうろうとしながらも残存。残った意識が朝刊配達の時間だと告げる。出勤した。吐き気とふらつき、思うように動けない。広告を挟み込みながら我慢できず、私はその場に倒れた。学生たちがびっくりして飛びのく。

奥から出てきた所長と奥さん。「そんなにつらけりゃ出てこなきゃいいのに!これは仕事なのよ!」という奥さんのイライラとした声だけ覚えていて、あとは記憶なし。

目次
⑴セクハラ編
 *お客さんからのセクハラ
 *職場でのセクハラ①~⑧
⑵パワハラと給料未払い編
 *パワハラと給料未払い①~⑩
~⑶過労・うつ・自殺未遂・産婦人科・退会編 ←今ここです
 *そもそも初めからおかしかった①~②
 *過労でうつになり自殺未遂して倒れたら産婦人科に連れていかれた①~③
 *退会前後に言われたこと①~③
 *私は両親を消費者金融に通わせた
 *私は完全におかしかった

そもそも初めからおかしかった①∼②

疲労困憊、命からがら退会して数年経った頃、私は突然思い出して部屋でひとり、叫び声をあげて狂ったように泣いた。どうして気づかなかったんだ?どうしてわからなかったんだ?いや、わかっていたのに、気づかなかった。

初めから、ほんとうに初めから、学生はひと扱いされていなかったのに、私は気づけなかった。気づいたら負けだと思っていたから。

①「頭がいい女の子はプレッシャー」「女の子はめんどくさい」by育英会

高校の卒業式の4日後に入会した育英会。男子学生はどんどん配属されていくのに、女子学生はなかなか進まない。育英会のビルに臨時の宿泊施設があるから、そこに閉じこもって配属先が決まるのを待つ。気が遠くなるような時間。

育英会の担当者に当たり前のように言われた。「あなた早稲田大学でしょう?そんな頭のいい女の子は所長がプレッシャーになるって言って、なかなか採ってもらえないんだよね。男の子はいいんだけど。特に所長に受験生の子どもさんがいたらなおさら、ね?(わかるでしょ?的視線)」知るか?そんなもん。

でも現実は、専門学校や中堅大学の女子学生から配属が決まっていく。母子家庭で必死に勉強して上智大に受かったという子と、宿泊室で膝を抱えて、大学での夢を話しながら、ため息をついていた。

「女の子はめんどくさい」とは、女子学生全員が言われた言葉だ。「女の子がいるとねー恋愛とかいろいろ問題が起きることが多くて、めんどくさいって」恋愛禁止令が敷かれる販売所も多いとのこと。でも言われるのは女子学生だけらしい。男子学生は恋愛しないらしい。

②もらった部屋に女ものの下着が残されていた

4月の頭にやっと配属先が決まり、大学のすぐ裏、目と鼻の先の販売所に決まった。ひと月近くを育英会の宿泊施設で缶詰めされ、女子学生であるが故の道の狭さをとことん思い知らされた。この店以外に私を採ってくれる店はない、と知っていた。

古い販売所の2階に、小さな部屋がいくつもあり、そのうちのひとつを私はもらった。3月まで勤めていた専業の男性が残していったベッドと引き出しなど残されていて、たいていの学生が布団しか入らないような部屋なのに、もったいないくらい広かった。

自分の荷物を持ち込んで、引き出しに入れようとしたら、女ものの下着がごっそり現れた。古びて元の色も怪しいくらいの洗いざらした感じ(それとも「使い古し」た感じ?)。女子学生が(何年も前に)いたこともある店、と聞いていた私は「前にいた女の子はずぼらだったのかなあ」と、紙袋に詰め込んで捨てた。

何年も経って私は気づいた。私の前にその部屋を使っていたのは専業の「男性」であったことに。あれは普通に身につけられた下着ではなかった。

過労でうつになり自殺未遂して倒れたら産婦人科に連れていかれた①∼③

記憶は曖昧だけれど、私は販売所の台所の隅で配達終了時間までゴロゴロしていたらしい。時々ふと目を開けると、そのたびに誰かが朝食を食べていた。私を変な目でちょこちょこ見ていた。記憶はとぎれとぎれ。

そうして、何時間経ったのやら、奥さんが「病院開く時間だから連れて行ってあげる」という。拒否する気力など残っていない。おとなしくついていった。近所の“産婦人科”へ。

今更に思う。あのひとたちは最初から最後まで、私を売春婦だと思っていたのだと。援助交際する子が倒れたら、真っ先に妊娠を疑う。そんなこと、当たり前だった。

①婦人科の問診票をガン見された

もうろうとする意識と吐き気の中で、病院に行きたくないとも言えず、連れていかれたところが産婦人科であることに疑問も抱かず、私は連れられて行った。受付は奥さんがさっさと済ませてきた。そして問診票を書けという。

問診票を私に渡して、奥さんは私の隣にぴったり座った。判断力のない私はおとなしく書く。産婦人科に必要な「性行為の経験の有無」にたどり着き、少しだけ「困ったなあ」と思ったけれど、悩む気力もなく「あり」に丸。

隣からクレッシェンドで注がれる視線が最大音量ではじけた瞬間。プライベートや守秘義務などあってないも同然。奥さんはきっと、見事に「やっぱりね!」と思った瞬間。

②診察を盗み聞きされた(入れ替わりで押し入られた)

産婦人科の診察で、医者とふたりだけになったことに安心して「薬を大量に飲んだ」と話したら、しばらく点滴を打ってくれて、それが終わったら、近くの総合病院に転院することになった。点滴時間はつかの間の休息。

終わり次第産婦人科を出て、所長の車で総合病院へ。受付も待合室も覚えていない。ただ、呼ばれて入った仕切りの中で質問に答えていたら、入り口のカーテンが揺れる。気になって見たら奥さんの上着がはみ出している。

私が入院の指示を受けて仕切りを出たら、こちらを見向きもせずに、奥さんが仕切りの中に滑り込んでいった。「自殺未遂」という言葉は医者が何回か口にした気がするから、それを聞いて「まずい、店が自殺に追い込んだと思われる?」と焦ったのだろう。

医者は話したのだろうか。その時の私はそんなことを考える力もなく、これでしばらく業務から解放される、としか思っていなかった。

③入院中に勝手に自室を見られた

私はそのまま総合病院のICUに入院した。所長と奥さんはその日のうちに、私のアパートの自室に入って、あれこれ見て回ったらしい。隣の部屋の女子学生が教えてくれた。立ち会わされた彼女は「あんなにいっぱい薬飲んだんですか?」と涙目で聞いてくれたやさしい子だった。

この頃の私の記憶はほんとうに曖昧で、10日ほどの入院のあと、自室に帰ってきた時に、なくなっているものがあったのかどうか。入院即日、両親が飛んできて退会を迫られていたので、必要な服などを取りに、短時間帰っただけだったから、わからない。

退会前後に言われたこと①∼③

ICUで私がもうろうとしていた間に、販売所、育英会、本社、両親の4者の間でかなりやり取りがあったらしい。両親は「大事な娘を追い込んで!」と怒っていたし、販売所や育英会、本社には、「原因が販売所や制度にあると思われたらたいへん!」という思いがあったと思われる。

自分の心の限界を超えた私は、泣くこともせず、怒ることもせず、ただひたすらニコニコしているという奇妙な状態に陥っていた。判断も決断ももはや自分の手の中にはない。すべて放棄していた。「あなた、なにを考えているの?」と母親によく聞かれた記憶。

そんな私を横目に、販売所や育英会、本社は言いたい放題だった。曖昧な記憶の中でもさすがに覚えているいくつかを挙げてみる。

①(両親へ)「育て方を間違った」

「普通の子はこんなこと(自殺未遂)なんてしない。育て方を間違ったんだ。だから私たちに落ち度はない」と何度も何度も、言葉を換えて両親は言われていた。

販売所は雇い方を、育英会は派遣の仕方を、本社は制度の作り方を間違えたとは髪一筋も思わなかったらしい。3者からはただの一度たりとも謝罪の言葉どころか、心配の言葉すらなかった。

②「どうしようもない子だった」(売春婦疑惑)

またしても出てきた私の売春婦疑惑。「前の店でも援助交際していたっていうじゃないですか!うちの店に来てもきっとやってたんですよ。自業自得です」

そこで私も両親も初めて知る。私の売春婦疑惑は、このひとたちにとって疑惑なんかではなく、強固な事実なんだ。私はこの店に心機一転と思ってやってきたけれど、そんなチャンスは初めからなかったんだ。

母がとことん悔しそうだった。

③業績をすり替えて話された

これも今更感。同じことは繰り返される。業績の記録を取っているひとたちが、取り違えるはずがない。退院して数週間後に、販売所に退会の意思表示をするために父親と出向いた時、業績を貼りだしていた紙が無くなっていた。

私は両親を消費者金融に通わせた

私は退会した。ということは、それまでに借りた奨学金を一括返済したということ。ほんとうに情けないのだが、どの時点で両親がお金を工面し、育英会に納めたのかを私は覚えていない。この時期の記憶は、時刻も日数も季節さえ曖昧だ。

あとから聞いた話だけれど、両親は消費者金融から借りこんで、私の返済金を立て替えてくれていた。消費者金融に親を通わせる娘…それだけはしないためにと頑張っていたことが、結局はそうなる道だったという、最大限の皮肉。

しかも両親は、私をどうにか卒業させようと、続けて学費を借りてくれた。だから私は家から大学へ通った。両親の工場を手伝いながら、大学を続けた。でも私は無自覚に完全におかしくなっていたので、結局卒業はできなかった。

私は完全におかしかった

なにかおかしい、と自覚したのはその年の秋。記憶が並ばない。販売所であったこと、育英会で言われたこと、学生仲間でのやりとり。どれもなんとなく覚えてはいるけれど、思い出せない。どの順番で起きたことなのか、わからない。

加えて、今の季節がわからない。毎日肌感覚の気温で着るものを決めていた。カレンダーを見ても実感がない。昨日やったことが思い出せない。今日したいことがわからない。現実が濃厚な霧で遮られている感じ。触れているようで触れていない。

両親は仕事の合間を縫って遠い県庁まで行って法律相談を受けたり、私の育英会退会に至るあれこれを訴えられないか、調べてくれていた。そして、いつもため息をついていた。

「あなたは何を考えているの?どうしてそんなに笑っていられるの?」

私は何も考えていなかった。何かを考えても真綿にくるまれるように、けむに巻かれるように、現実との距離が遠のくだけだった。そしてことさらに笑った。小さな弟と遊びながら、けらけらとよく笑っていた。頭の中は何を詰め込んでも空っぽだった。

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ICUに入院している時、担当の医者に心療内科や精神科の受診か、せめてもカウンセリングを受けるよう言われていた。しかし、自分がおかしいという自覚がまったくなかった私は聞き流してしまった。

実際、自分をおかしいかもと感じたのは退院後半年経ってからだったし、「これはどうやってもおかしい」とはっきり自覚したのは、5年後、2人目の子どもを出産した後だった。

「産後うつ」という状態にとてもよく似ていると思ったのだけど、「でもこれまでだってこういう状態を経験したことあるな」と思い当たった。心療内科、精神科をいくつもはしごして今に至る。

現在、私は双極性障害という病気の患者として、療養しつつライターの仕事などをしている。時に症状が強く出て、何もできないこと、死にたくなることもある。そういう病気だから。

主治医によると、これほど強く症状が出るきっかけのひとつは、大学時代の過労、生活の負荷であるとのこと。

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私がこれからやりたいこと

こんな文章を書いて、今更所長や所長の奥さんや、育英会や本社を謝らせたいわけではない(そんなことも思うけれど)。私はそれよりも、現在勤務している新聞奨学生の現実がどうなのか?を知りたい。パッと見たところ、制度に大きな変化はないようだし、同じことが繰り返されてはいないか。私が経験したことと同じことが今も続いているなら、私は許さない。

私がやりたいことは3つ。
 ①新聞奨学生にインタビューして現実を記事にしたい
 ②変えるべき制度のゆがみをあぶりだして提示したい
 ③新聞奨学生制度を安心して頼れる制度にしたい

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ほかの記事はこちらです→⑴セクハラ編⑵パワハラと給料未払い編

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