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この岩壁に彫刻を。~思い通りに回らない人生は不幸か

あれやこれやと忙しい日々の中でふと生まれた隙間に、生きてきた時間を振り返る瞬間がある。その時に「なんやかやとあるけれどまあ、思い通りに人生が回っているなあ」と思うひとと、「よくもまあ、問題ばかり。思い通りに生きられたことなんてあったっけ」と思うひとがいるみたい。

多少のグラデーションはあるにせよ、ひとは主観としてどちらかに分かれるのではないだろうか。そして、私は圧倒的に後者だ。

物心ついた時には自営業の家の娘で、納期やお金に振り回された中学校、高校。セクハラと過労で倒れて中退した大学。闘病と療養で悪夢のような20代と、ひと息つけたと思ったのに子どもたちの病気と不登校という高波をかぶっている30代の今。

あれやこれやと思い出される「思い通りにならなかったこと」、それ以上に「私を振り回してくたくたにさせたこと」は山のようにあるけれど、そんな話は書きたくない。

確かに「思い通りにならない人生」にきりきりして、のど詰まらせて泣きじゃくった夜はたくさんあった。後悔と恨みが息もできないほど押し寄せた日もあった。

でも、「ではあなたは不幸だったの?」と聞かれるとなにか違う。私は不幸だったのだろうか。これに「違う」と答えるのは、意地っ張りで見栄っ張りな私の反発力だけではないような気がする。

それに「不幸だった」なんて認めてしまったら、もう、「不幸へ向かってまっしぐら人生」になってしまいそうだ。

定義しよう。

私のこれまでの人生は「不幸」ではない。「困難」だ。

あ、いいかも。と思ってしまった好戦的な私。「不幸」は味わうものだけれど、「困難」は挑むもの。

「思い通りにならない」という困難は、不幸ではない。

灰谷健次郎さんの「少女の器」にこんな文章がある。

「頭の先で考えた通り生きることのできる環境を持って生まれてきた人と、そうでない人があるだろ。おまえのママは多分、先の方のひとだろうね(中略)もちろんママにはママなりに苦労があっただろうけど、少なくとも自分の意志の範囲で生きられた。(中略)長い人生のはじめからしまいまで思うままに生きられたと言う人がいたら、その人は多分不幸な人だろうね」

だから私はしあわせなのだ、というのは違う。不幸自慢とも違う。でも「困難」に挑む楽しさというものには、しあわせに近いものがあると私は思っている。

楽しくなんかない。楽ちんでもない。希望がはっきり見えるわけでもない。笑っていることすら困難だ。それが困難の中を、困難に挑んで生きるということだ。

何も変わりそうにない岩壁に、少しずつ少しずつ傷をつけていく。少しずつ少しずつ形を変えていく。自分の力で加えた変化。自分の力で変えられたという事実。全身の力を振り絞ることは快感ではないか。楽しさではないか。

決して楽しくは生きられないけれど、楽しんで生きることはできる。

「思い通りに生きられるかどうか」と「人生を楽しめるか」は別物だと考えている。

思い通りとは程遠いけれど、苦しいけれど、楽しくなんかないけれど、私は私の人生を楽しんでいると思っている。願わくば、この岩壁を突き崩してから死ねますように。

でも、このまま岩壁に彫刻を掘るのもいいかな、なんてことも思う。

大切なのは自分の力で変化させられたかどうか、らしい。いや、その前、「挑んだかどうか」なのだと思う。

人生の楽しみは「挑むこと」にある。


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