歪んだファザコン

父と私はただの「父と娘」だった。
父親のことが大好き!と笑顔で言う友人や、素敵な父親を持つ人が羨ましかった。私は父をただの「父」としてしか見ていなかったからだ。

小学生低学年の頃だったか、父が少し高い場所に私と妹を立たせて、
自分に飛びこんで来い!と両手を広げたことがあった。妹は即座に飛びこんで行ったが私は躊躇した。それを見た父は「怖がらなくていい!そら!」と言ったが私は拒んだ。怖かったんじゃない。父に飛びこむのが嫌だったのだ。それでも両手を広げている父を見て、止む無く渋々と飛びこんだ記憶がある。
父はその行為で自分が父であることを実感したかったのだという。母親は自分の身を痛めて子を産むので母である実感は自然と生まれるものだが、父親はそういうわけにはいかない。ある日、突然何の実感も無く父親となるからだ。わざわざそんなことをしなければ、父親を実感できなかった父は、愛情表現ができない人だった。だから、人に愛情を注ぐことができない。だけど、自分には愛情は注いでほしい…その思いの方が強い人だった。

高校の頃、ホームステイ先から家族へ手紙を書く…というどこかむず痒くなるようなことをさせられた時、私は父の愛情が感じられないと思っている旨をつらつらと書いた。帰宅後、母が誤解だと私に言ったが、父は何も言わなかった。何事もなかったかのように土産話をせがんだ。

そんなギクシャクした父と娘の関係は、父が倒れて少し変わった。父の興した会社をどうにかしようと奮闘したからだ。当時はそれが正しい道だと思っていた。ひとりで何もできなくなった父を放っておけるはずがなかった。我武者羅に毎日を過ごした。父は時々満足げに褒めたが、更に上、もっと上と満足することはなかった。まるでつばめの雛がもっともっとと口を開け、食べさせてもらうのを待つように、父の与えてもらうという欲は満たすことはなかった。その上、父に関わる病院、人、タイミングまで全てが最低最悪で、家族はみんな振り回され続けた。私の大事な30歳代はそうして過ぎ去った。

元々、与えることが不得手の父が人の助けを借りなければ生きられなくなると、自分は与えなくてもいい、自分は与えてもらう立場の人間だと開き直っているようにさえ見えた。そんな父がどんどん嫌いになった。それに反比例するように父の体はどんどん悪くなって、ついには寝たきりでしゃべることも食べることも儘ならなくなっていく。嫌いな父をただの娘が淡々と世話する。そうして何年もすぎて、お互いの心が無になっていく。

最初に倒れてから気づけば14年、先日大嫌いだった父が漸く逝った。
涙なんか出ないはずだったのに、心は微動だにせずまま頬をつたっていく。
悲しい涙ではない。うれしい涙でもない。悔しい涙でもない。
なんのそれかが分からない。
ただ、何度も何度も頬をつたっていく。
そして、思い出すのは、私が描いた絵を嘘になるほど大げさに褒めた父の姿だった。
私は、歪んだファザコンだったかもしれないと思う。
父があちらへ逝くことで繋がれた父と娘の話である。

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