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ジーンとドライブ vol.11

前回のつづき…
朝一番の新幹線で東京港まで向かう。ジーンはずっと私の後を静かについてくる。一瞬巻き込まれた東京の朝のラッシュ時には、顔を歪めてため息をついていた。どう見ても、これから楽しい旅行に行く人の顔ではなかった。そんな顔を見て私もため息をつきそうになったがすぐさま深呼吸に変えてみる。
東京港には所々錆びて年季の入った船が泊まっていた。『おがさわら丸』だ。その古さに私は少し不安になった。ジーンも不安そうに、緊張した面持ちで見上げていた。
それでも、大海原に出航すると不思議に気分は晴れやかだった。潮風とカモメ、日差しを受けて煌めく海が如何にも『旅立ち』を演出してくれて、私は漸く落ち着くことができた。すぐに前も後ろも右も左も海になると、当たり前だけど海は広くて大きかった。少し怖くなるほど自分が小さく思え、後は、もう野となれ山となれと『おがさわら丸』の揺れに身を任せて眠りについた。

丸一日船に揺られてとうとう着いた。小笠原諸島。
深くて濃いブルーの海。『ボニンブルー』というらしい。『無人(無人島)ブルー』のヨーロッパなまりだそうだ。
船酔いに弱いことが分かっていた私は予め薬を飲んだが、そんなものは飲まないと拒否したジーンは青白い顔をしていた。
「暑いな…。」
「だから言ったじゃん。暑いよって。」
ジーンにとって自分の住む町の気温が全てで、一日移動したぐらいで気温がこれほど変わることを認めなかったのだ。船を降りた瞬間の生暖かい風に漸くそのことを認めたのだった。
ギリギリに予約した旅館は主要な町から随分離れた奥の方にあった。不便だとは思ったが、バイクをレンタルすれば済むし、歩いて行けるところにはシュノーケリングに最適なビーチがあった。人気も少なく、人混みを嫌うジーンには打って付けだと思った。予約したいくつかのツアーも全て同じ、こじんまりとした少人数の所を選んだ。
荷物を預けたら早速、シュノーケリングが始まる。何度もメールでやり取りしている気のいいお兄さんだ。
「お仕事なにされているんですか?自営業か何か?」
「ハハハ。いやいや。」
「台風重なって、日程調整よくできたなぁと思って。まぁまぁようこそようこそ。」
その点は心配ご無用です。だって無職ですもの…。一瞬ヒヤリとしてジーンの顔を見たが、ジーンはすでにシュノーケリングの全てを装着して突っ立っていた。

ボニンブルーの海は潜ってみても青く透き通っていて、モヤモヤもイライラも全てを解きほどいてくれるようだった。カラフルな魚達のラッシュは東京の朝のラッシュとは全く別物だった。
「わーすごい!キレイね。」
振り返ってジーンを探したが、ジーンはバシャバシャと沖の方へと泳いでいた。
夜には同じガイドさんとナイトツアーで夜を歩く。小笠原に生息するコウモリや、凄まじく足早に砂浜を走り去る白いカニ。夜道をあちこちで渡るヤドカリや大きすぎるカエル。絵具をひっくり返したように鮮やかな大きな落ち葉。中でも『グリーンペペ』という緑色に光るキノコには驚いた。一夜にして自然への不思議が溢れていた。少し雲はかかってはいたが空気は澄み星がきれいな夜で、海岸を歩けば月明かりで砂浜に二人の影ができた。

次の日は一日海で過ごす。同じガイドさんの船の上には、前の日から一緒の一人旅の青年と、町で居酒屋を経営する姉さんも合流し、ガイドさんも入れて私達と5人が乗っている。
イルカと泳ぐというミッションは何とも容易にクリアできた。出航してすぐにハシナガイルカと出会ったのだ。
「今!」
ガイドさんのかけ声と共に4人が一斉に海へダイブする。興奮してシュノーケルを装着し忘れていたのは私たち夫婦だ。大失態に大笑いしながら慌てて装着すると、飛び込んだ泡の合間に近づいてくるイルカの顔が見える。みるみる近づいて、私達を避ける様にして通り過ぎていく。早い。一緒に泳ごうと向きを変えるも一瞬で行ってしまった。二度目の遭遇はバンドイルカ。まだ小さな子供のイルカはまだ眠っているようにゆっくりと泳いでいて私にはちょうど良かった。
ガイドさんがブログに載せる写真を幾度となく撮ってくれる。私もたくさんの写真を撮る。ファインダーには笑顔のジーンが写っていた。
ランチは旅館の人が持たせてくれたお弁当を波の静かなビーチに船を浮かべて頂く。大きなウミガメやエイが揺蕩っていたが、それをジーンは誰よりも早く気づいてみんなに教えた。
どこもかしこもお魚天国だ。ここでは完璧に人間様が生き物たちのお邪魔をさせていただいている。一日中クジラやイルカを探す。イルカを見つけては何度もダイブして一緒に泳いだ。姉さんの自前のフィンはほぼほぼ魚の尾ひれで、少しの蹴りで大きく進むことができる。ものすごくしなやかで、イルカと共に遠ざかっていくのを後ろから見ているととても綺麗だった。もうイルカに見えた。たった数日ではこうはなれないな…と羨ましかった。まだまだ泳いでいたかったが、夕日に促されるように5人は海を後にした。

最終日はツアーの予約は入れなかった。ジーンが選んだのは山ではなく海だった。旅館から近い綺麗だと評判のビーチへ向かった。
随分上達したシュノーケリングでしばらくビーチを潜っていたが、なんだか久しぶりに私のもとへやって来たかと思うと、泳いでしか行くことができない隣のビーチへ行ってみると言いだした。波が荒いからと躊躇する私の前をジーンはずんずんと泳いでいく。大きな岩のトンネルをくぐると、すでに遠くに離れたジーンが興奮した様子で何やら指さしている。見るとヤギの群れだ。へえ。ヤギか。それはそれは…。こちらは結構必死で泳いでいる。いつの間にやら置いてけぼりじゃないか…とぼやきつつ、漸く渡り切ったビーチには達成感に満ち溢れたジーンが先に居て嬉しそうに手招きをしている。
ひと息ついて写真を一枚。出来るだけ遠くに手を伸ばして二人の写真を撮る。レンズにかかった雫でところどころ歪んだ写真だが、そこには今まで見たことのないジーンが写っていた。穏やかで柔らかく、清々しく…とにかく『いい顔』だった。隣に写る私も些か疲れてはいたが『いい顔』だった。

三日間の小笠原は瞬く間に過ぎた。
最後の朝、朝日を見ようとバイクを走らせた。小さな島だけど私には大きく感じた。何もない島だけど、自然や生き物が豊かだった。諦めずに来て良かった。来れて良かった。ジーンの『いい顔』が見れて良かった。

帰りの船が出航すると、追いかけてくる何艘もの船から島民たちが「いってらっしゃーい」と叫びながら順々にダイブしていく。その度に乗客からは歓声が上がる。ジーンは乗客に交じって「行ってきまーす」と大きく手を振っていた。あれだけ嫌がっていたのに、また来るつもりかいな?と心の中で突っ込みながら、私も同じように手を振った。
ふと見ると空には絵にかいたような虹がかかっていて、胸が熱くなった。

帰りは二人とも揃って酔い薬を飲み、エネルギーを使い果たし、クタクタの体を『おがさわら丸』に委ねて深く眠った。

数日後、「来れて良かった。ありがとう。」と書かれた小笠原諸島の消印が付いたウミガメのはがきが届いた。

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