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逆さになった世界を感じるために

本来、飽き性の私だが、五時起きの朝活は順調に続いている。
毎日違った空を眺めていると、自分が如何に小さい存在かを認識する。
今朝の朝日はオレンジともピンクとも言えない、実にきれいな色で姿を見せてくれた。きっとこの色を眺めている人は少ないんだろうな…と思うと、少し優越感を感じる。この色を見ることができた自分は、見れなかった人より少し幸福度が高いはずだと思うと、色々な煩わしいことは塵ほどに小さくなる。

朝のストレッチの時間、撮りためたビデオを流すのだが、その中に「ヘウルーカ」という番組がある。又吉直樹がナビゲーターの番組である。先日のテーマは「人はなぜ絵を描くのか?」だった。その中で、人間に最も近い動物類人猿の描く絵が紹介された。描かされているのではなく、自ら筆を持ちリズミカルに筆を動かし、描いている。チンパンジーやゴリラが描いたと聞かなければ、どこぞの抽象画家が描いたと思う。それぞれに個性があり、緩急があり、余白が奥行きを持たせて…。いい絵だなと思った。
人間の子供も、三歳くらいまでは同じような絵を描くが、それ以降は明らかに違った。目や鼻、口を認識し、知っているものや見えるものを描くようになる。類人猿は識別できるものを絵には描かない。その違いは、言葉を覚えたか否かであった。
認識して知っているものを描けるようになると、見ていながら、実はきちんとは見ていないで描くようになる。何かを手に入れて、何かを失うと言うのだ。
私が今までに出会った絵描きの中で、絵を描く姿勢において尊敬する人が二人いる。その二人は年も性別も別だが、人が失うそれを失わずにいる絵描きだった…と感じた。私が二人の絵に惹かれたのはそのせいだと確信した。
絵を描きたくなったけど。私はもう失ってしまっている。そう思った。
番組の中で、失ったその感覚を呼び起こすために、逆さまにモノを見てから描く…という奇妙なことをしていた。又吉さんが頭に血を登らせながらスケッチをしている。「何を描いているか分からなくなっています…」と困っていたが、その感覚がいいらしい。出来上がった絵は、普通に描いたものより格段に良かった。
私のモノを見る目は、絵を描く目と言う事で言えば、長い月日で薄っぺらなものになってしまった。逆さでモノを見るくらい変なことをしてみない限り戻らないのだ。いや…。元々絵が上手いわけではなかったのだけど。
だから、文字を書きたくなったのだろうか。元々、絵の頭でなかったか、頭で色々思いを巡らせているうちに、絵よりも文字の頭になったのか。
何はともあれ、noteをはじめて気づけばまもなく二年。週に一度くらいのペースとは言え、飽き性の私が良く続いている。

でも本当は絵も描きたいのだ。尊敬する二人のような絵を描きたい。
もう、自分が何者かになろうなどとは思わないし、そんな者になり得ないことは重々分かっている。ただ、自分を解放する為だけに描ければいい。
そんな風に思う近頃である。

朝、新しい朝を迎えるたびに生まれ変わるとでも暗示をかけようか。
見事に一日として同じ朝を見せない空は、どんな一歩も容易いことと感じさせてくれる。
それに、ああだこうだと思いを巡らせていることすら、塵のようなものだ。
それを思い出すためにまた明日、空を見る。

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