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神社にまつわるご利益のある話

明けすぎてるだろう!と言われそうですが、明けましておめでとうございます。まずは能登半島地震で被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。そして一日も早い復興を祈念しております。

さて、息子の成人式も終わり、正月気分はとっくに終わり。3月半ばまでは怒とうの日々が続くことになります。明けすぎているとはいえ、2024年最初のnoteということもあり、今回は昨年に続き、“神社ソムリエ”佐々木優太さんから学んだ、神社にまつわる話を書いていきたいと思います。今後も役に立つ話だと思うので、「初詣の前に書けよ!」と言わずに、読んでみてください。

神社はその名の通り、神様が祀られている場所であり、神聖な場所というイメージがあると思います。そんな場所に行くときの服装や振る舞いについて、どうしたらいいのだろう?と考えたことがある人もいるのではないでしょうか。

そこで神社に行くときの考え方のポイントを紹介します。ポイントは「社殿の真ん中に自分が一番尊敬している人がいると思う」こと。神様は目に見えないため、どんな振る舞いをすべきか困ってしまいます。そこで、一番尊敬する人物がいると思って所作をとれば、間違えることはありません。

「一番尊敬する自分」という言葉は共通していても、人それぞれ思い浮かべる人物は違います。その人物の前で自分がどのように振る舞うかを考えれば、自然と神様の前での振る舞いになって行くというわけです。

これは服装の考え方も同じです。もしかしたら尊敬する人物でも、相手がフレンドリーな人で、Tシャツ、短パン、サンダルで会いに行く人もいるかもしれません。それはその人にとっては正解なので誰も否定できません。逆に「自分は尊敬する人には正装で会いに行く」という方は、神社にも正装で行けばよいのです。ただし、自分が正装だからといって、短パン、Tシャツの人を否定するのは正しい行為とは言えません。神社では他者を否定することはできないのです。振る舞い、服装に、「こうしたら願いが叶う」という正解はなく、自分がどういう姿勢で行くかというところがスタートになります。

振る舞い、服装と同様、皆さんが一番気になるのはお賽銭の額ではないでしょうか? しかし、お賽銭の額で迷う…ということが、そもそもの間違いだということを最初にお伝えしなければなりません。なぜならお賽銭は願い事の対価ではないからです。金額で迷うということは、「いくら入れれば願いが叶うか?」と、対価として考えてしまっているということで、その発想は大きな間違いなのです。10円しか持ってない人の10円と、1万円持っている人の10円では、同じ額でもその人にとっての価値はまったく違うので、お賽銭の額にも正解はありません。

ちなみにお賽銭は願い事の対価ではなく、後から神社に来る人のためのものと考えると良いでしょう。というのも、今日この瞬間、自分が神社に参拝にあがることができたのは、自分より前に参拝にあがった人たちがお賽銭を入れたことによって、今日まで社殿が維持されたからです。お賽銭によって社殿が維持される、つまり、自分が入れるお賽銭は、後ろに並んでいる人、明日神社に来る人のためなんです。

たとえば、「家族が明日手術なので神様助けてください」「明日は試験なので最後のひと押しお願いします」…そんな切実な願いを持った人が来たときに、この神社がありますようにという思いを込めて納めるものがお賽銭なんだと考えてください。その「明日来る人」は自分自身かもしれないし、家族や友人かもしれない。だから次に来る人のためにお賽銭を納める。そういう考え方です。お賽銭は自分のためではなく、人のために納めるものと考えれば、いくらが適切かと悩むことなく、できる範囲で良いということがわかります。

人のためにお賽銭を納めるという感覚を日常生活にも生かしていけると、自分だけでなく、周囲もハッピーにできるのではないでしょうか。対価を求めるのではなく、まずは自分から納める、与えるという発想です。損得勘定抜きに人のために行動する。そんな振る舞いを自然とできれば、自分にも周囲にも、自然と福がやってくるかもしれませんね。

まずは与える。ギブの精神はのちに自分に返ってくることを今はすごく実感しています。というわけで、今年もよろしくお願いします。

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