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2月26日(月)

私が感じるもので、最も重たいものを、どこかで表現できたなら、それはすごくいいことだと思う。


家具が好きで、中でも椅子が特に好きなんですが、ふと、人類はいつまで椅子に座っているのだろうと、疑問に思った。いや、思っただけで何かを思いついたわけではないのだけど、毎日当たり前のように座っている椅子という道具の、ずっと未来を考えてみると、まったくわからなくて、おもしろい。

10年や20年では何も変わらないような気がするけど、50年後くらいには、3Dプリンターで自分の体格用に印刷された椅子に座っているかもしれない。家とか家具とかを印刷できる、でかい3Dプリンターがほしいな。


友人と話す中で、「不安を感じる方向の先には、未知の何か、自分が知らず知らずに避けていた何かがあるような気がして、むしろそちらに喜んで進んでいきがちなんですよね」と言ったら、「それだけ聞くと、ひらやまさんはまじでクレイジーなやつですよね」って言われた。そうだと思う。

18歳ごろから、みんな(実際には存在しないが、概念として存在する、周りにたくさんいるような人たち)が進む方向にそのままついていくことに抵抗感を覚えるようになっていた。古典を読んだり哲学書を読むようになったりしたからかもしれない。ただ、人と共通の趣味がなかったり流行りの曲に興味が持てなかったり、ふとした瞬間の違いを、当時なんとなく感じていたと思う。

ただ、どんな人でも、よくよく見てみると、”みんな”と比べておかしな点が見えてくると思っている。そのおかしさは、表に出すと、気味悪がられたり説明するのが面倒だったりして、普段見かけることは少ないけれど、どんな人の中にもある。人の中で結晶化している、その人を見たいと思うし、その人がそれを感じながら生きられること、それを感じてもよいのだと感じられることを、つい祈ってしまう。


なぜか唐突に筋トレを再開した。去年は一年くらいパーソナルジムに通っていた。腕立て伏せとプランクをやり始めて、翌日に筋肉痛が少し残るくらいの強度を目指してやっている。まだはじめて1週間くらいだけど、腹筋が割れてきた。効果出るのが早い。


自分に対しても、人に対しても、変化の可能性がある状態を望んでいる。執着してしまうくらい。変化の方向性や量は、あまり重要ではない。変化することができる、できるかもしれないと思えること。そう感じられる感性や精神、環境があること、それらにアクセスできること、またはそれらを学べると感じていること。そういったものへの執着がある。そこを起点に考え始めなければいけないような気がしている。


ようやくハイデカー「存在と時間」の解説記事連載を読み終わったので、詩を書くのを再開する。2月中にもう何本か書きたい。がんばる。

最後まで読んでいただきありがとうございます。