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3月17日(日)

友人が欲しかった。自分が誰かと仲良くなれることは嬉しかったし、誰かと誰かと仲良くなることも嬉しかった。この祈りの原型は小学生くらいの頃にはもうすでに形つくられていたように思う。

一方で、一人で過ごすのも好きだった。本を読んだり一人でドッチボールの練習をしたり(壁に向かってボールを投げてた)積み木を積んで崩してまた積んだり秘密基地をつくったり、どれも好きだった。

大人になるというのは、物わかりがよくなることだと思っていた。大人になって感じることは、何かをわかれることなど、ほんの一握りもないということだ。何かがわかると、わからないことが生まれて、それをわかってもまたわからないことが生まれる。人間と真理との関係は、星星のそれのようだ。それぞれの軌道を進み、お互いに引力で引き合ってはいるが、一定距離以上には近づけない。進んでも進んでも、回っても回っても、決して出会うことがない。

人と人との関係性もまた似たようなものかもしれない。お互いに引き合えど出会えない、適切な距離を保ちながらお互いがお互いの周りをくるくると回っている。質量が増えすぎたり速度が出すぎたりするとぶつかって、お互いに欠けながらこれまでとは違う軌道を描き始める。寿命が尽きるまでそれらを繰り返す。

もう戻らない関係性もある。すれ違ってしまったり傷つけてしまったりして離れてしまってもう近づくことがない。片方がどれだけ願っても祈ってももう片方が近づかないことには二人の距離は縮まらない。後悔したり懐かしんだりしながら、自分の前に続く道を眺めている。

人と人とが仲良くなるということは、過去現在未来を含む、私とあなた、私とあなたの関係性それ自体、わたしたちの周りに広がるすべての関係性が調和していることだと思っている。私もあなたも環境もすべてが刻々と移りゆく中ですべてを調和させることなどできないという悲観を持ちながら、それでもなお調和が訪れること、少しでもそれに近づいていきたいという祈りを持っている。

いま友人をしてくれている人たちを大切にしたい。そう思い続けても離れてしまう時は離れてしまうのだから思うこと自体無意味かもしれないのだけど、そう思わずにはいられない。できたこともできなかったことも、できたと思ったけどできていなかったこともできてなかったと思っていたけどできていたことも、たくさんあった。誰のために大切にするわけではない、環境とすべての関係性から私の応答が問われている。生身の私が問われている。


日本帰ってきた。まだまだ寒い。

タイで食べすぎたので、しばらく外食以外はダイエット週間。白米と味噌汁と少しのおかずで生きていく。がしかし、カレーとかラーメンとかハンバーガーとか食べたい気持ちもある(食べない)。


たまに開くTwitterのスペースとか居酒屋での雑談とか、どんな場所でもどれだけ取り繕っても、結局は生身の自分で話すことになる。どれだけ楽しくてもどれだけシビアでも。話の真剣さというのは、あらゆるタイミングに潜んでいて、一見軽そうな話題でもその人にとっては切実な話かもしれないし、笑いながら話していても心は慟哭しているかもしれない。特に、「普通そうはならない」と思うことほど、そうなる可能性がある、自分の盲点は自分からは見えないから。

少し前の飲み会で、おそらく聞きづらいであろうことを聞いてくれる人がいた。ありがたかった。内容それ自体というより、おそらくさまざまなことを考えた上でなおコミュニケーションしてくれるのが、ありがたかった。最も聞かれたくないことを聞かれた時、突っぱねてしまったりはぐらかしたりせずに、そのときに感じていることを話せる自分でいたいよ。

自分ひとりでは扱いきれないような話を、誰かに、ただ話せる、結論とか意義とかなくただ話せるというのは、生きていくために不可欠な行為なんだよな。持っちゃいけない気持ちなんて存在しない。そう思うのはなかなか難しいのだけど。



最後まで読んでいただきありがとうございます。