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4月15日(月)

自分の詩を読んでくれた人が「この詩を他の人にも送っていいですか」と聞いてくれた。もうそれはもちろんぜひ。どうか、詩が送られた先の人に静かな時間が訪れますように。


ちょっと誘いづらいかもなぁと言う人に、連絡返ってこなくてもいいから一応連絡を送ってみる精神 is 大事。


家のインテリアのレイアウトを仮組みしたくてやりたかったblender、自学したけど全然わからなくて挫折してたけど、たまたまTwitterで見かけたミヤオウさんのワークショップに参加してきた。

大井町に根付いたコーヒーショップの一角で集まった5-6人で相談しながら柔らかい雰囲気の中でわかりやすく楽しく教えてもらった。

基本操作はだいたいわかったので、部屋のレイアウト組みに再挑戦してみる。ミヤオウさんのアートワークがすきなので、直接ご本人にも挨拶できて、よかった。


あさみさんのnoteを読んで自分も書こうと思って、こつこつ書いてたnoteが出せた。よかった。やや疲れた。

書くことは、極めて個人的な行為だと思うので、一般的な意味ではなく、自分なりの書くこと、続けることを発見できたらそれが一番だと思っている。まあそれを発見するまでがとても大変だし、一度発見したからといって終わりでもないので、楽になることはないのかもしれないのだが。

このnoteの中でも、「こうすれば楽になれる」みたいなことは書いてない。苦しみや悲しみはなくすべきものではなく、受け入れるべきもの(もちろん多過ぎて良いことはないので適度であることが望ましい)だと思っている節があるので、自分に合った苦しみや悲しみ、あるいは苦しみや悲しみへの態度を見つけられるといい(これはほとんど書くことへの向き合い方と共通している)。


最晩年のわたしはどんな言葉を使いどんな文章を書くのだろうか。いまからだと全然想像できないのだが、いつか考えてみたい。いま自分が使う言葉はいまの自分が使う言葉でしかないと思うと、少しだけ切ない。


「自分が変更可能である」という前提を持つのは、すごく難しいと感じつつ、人は、自分は、どうすればその前提を持てるのだろうか、ということを最近よく考えている。

変われなくなってしまった人は、言葉を選ばずに言えば、悲惨だと思う。周りを侵略して征服するか自分を守るために小さな自分の世界に閉じこもるくらいしか選択肢がない。自分がいま最も大切にする価値観は変更可能だろうか、という問いを持ちながら生活していきたい。


友人と一緒に運営しているオープンスペース(『おざぶ』という名前)を料理本の撮影に使ってもらった。

(関わった人がそれぞれ感想投稿しているのも素敵)

料理、撮影、編集、制作進行それぞれのプロが集まってちゃきちゃきと進んでいく現場は、なんとも言えない心地よさがあった。料理もお裾分けしてもらったが、どれも美味しく、体の内側から元気になるようだった。本の完成が楽しみ楽しみ。

スペースは押上にあるので、もし撮影やイベントで使いたいなどあればお気軽にご連絡ください!


メモアプリを整理していたら、2021年8月のメモを見つけた。

どうしたら自分の人生をうまく相対化し続けられるだろう。

つい、目の前のことに執着してしまう。それくらい大切にしている。ただ度を超えると、それが重荷になる。一度重荷に感じると、丸ごと捨てたくなる。

重さに気づいて、大切なものを整理して、また新しいものを積み込んでいくような、緩やかな変化をしていきたい。

そのときの感情をどこかに置いておくと、後から見ることで相対化できるかもしれない。それをするにはそのときそのときを感情的に生きながら記録、記憶することが必要になる。短期的に感情的になれない限り、長期的に客観的になれることはないのかもしれない。

短期的に客観的でありそれを記録しても、あとからみても感情が想起されることは少ないだろう。未来の自分の感情を動かせるのは、いまの強い感情くらいしかないかもしれない。時間が経っても色褪せない感情を宿せるものが、よい表現と言えるかもしれない。

最近は「相対化したい」と意気込むことはまるでない。そもそもそう意気込んでいる時点では、意気込むことはちっともできていないのが常だ。

身体性への信頼がないと、メモの中の自分のように思考ですべてを考えておかないと不安になってしまうのだろう。思考の力を抜くには、わたしの感覚への信頼と感性が欠かせない。

あと「うまく」やろうという気もあまりない。むしろ下手でいたいとすら思う。何事も今よりも上達するべく日々を繰り返しているけど、それによってある地点に到達するようなものでもない。どこまでいっても未熟で未完成で途上なんだと、それが前提なんだと思うようになった(どうしてそう思うようになったかどこかで掘り下げたい)。



先週末、坂本龍一と高谷史郎が手がけた公演「TIME」を観てきたけど、とてもよかった。

舞台上に貼られた水面が鏡のように舞台を反射して、空間に静謐さを加えていた。田中泯さんの表情一つで舞台から目が離せなくなって、宮田まゆみさんの演奏する笙(雅楽で使われる伝統楽器)の音色に魂ごと吸い込まれそうになって、自分がいまどこにいるのかわからなくなるような幻想的な時空が生み出されていた。


以前から詩を読んでくれて感想をいただいていたverdeさんのコミュニティにお邪魔して、詩の感想を話し合う機会をもらった。

 2023年11月から詩を書き始めて最初の10本を書いた頃から、verdeさんとTwitterのDMで往復書簡のようなやりとりをさせてもらっている。感想の中でいくつも良い言葉を書いてくれているのだが、特に印象的だったのが、

見えないものたちを表現することは芸術です

という言葉。これをみた時に、自分のやっている行為を説明する言葉が一つ見つかったと感じた。

詩を書く時には、頭の中に風景が一つ浮かぶことが多いのだが、それは実際に見た景色だったり想像の中の景色だったり現実と想像が混ざった景色だったりする。それらの景色はほとんどが美しいもの(おどろおどろしいものの中にも美しさがある)で、それから感じるものを詩にすることが多い。

他の人には見えないもの、今の自分にもはっきりは見えないものを見て、それから感じるものをなんとか形にできないかを思いながら詩を書く行為は、まさに『見えないものたちを表現すること』なんだと思った。

自分は、詩を、コミュニケーションのためのツールとして用いていない。感想をもらうことはとても嬉しいことだけど、それはあくまでも次の詩の糧になるものであり、自分が誰かとつながるためのものではない(結果的につながることはあるしそれは歓迎なのだけど)。”置き手紙”みたいなものかもしれない。「ここに置いておくのでよかったら読んでください」みたいなテンションで書いている。

興味があるのは、「自分が何を美しいと感じるのか、自らの手は美しいものを生み出せるのか」という点で、ずっとそれを考えている。たぶんそれは変わらないことだが、この部分が、「もっとたくさん読まれたい」みたいになってくると、その思惑に基づく行為はたぶん違ったものになってしまう。

verdeさんにもらった言葉は、自分を大事な場所に連れ戻してくれるような言葉なので、これからも大切にしたいです。ありがとうございます。



最後まで読んでいただきありがとうございます。