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これからの「生き方」の話をしよう

ずっと前から「生き方」というものに興味がありました。

人はなぜ生きるのか
どう生きてどう死ぬのか
日々をどんな気持ちで過ごすのか

高校生のときから答えのない問いをずっと考えていて、「どんな風に生きたいか」と聞かれたら、「明日死んでもいいように生きたい」と答えられるようになりたいと思っていました。

自分は当時その言葉の意味を以下のように捉えていました。

後悔ないように生きる
やりたいことはすべてやる
何かを大切なことを達成する
だれでもない何者かになる

でも最近になって、「違う意味なのかもしれない」と思うようになりました。

その言葉の意味は、もっと生々しくて、不完全で、人間らしく生きることなのでないか、と思ったのです。


強い言葉との出会い

高校生二年生のとき、セネカの「生の短さについて」という本に出会いました。そこに書かれていたのは、何千年も読み継がれてきた強い言葉たちでした。

誰もが永遠に生きると思い、人生のはかなさを考えることなく、浪費した時間を気に留めない。毎日が最後の日になるかもしれない状況の中で、不死であるかのようにすべてを望み、満ち足りて余っているかのように人生の時間を浪費してゆく。

誰もが現在あるものに倦怠感を覚えて生を先を先へと急がせ、未来への憧れにあくせくするのである。

生きることにとっての最大の障害は、明日というときに依存し、今日という時を無にする期待である。

高校生ながらハッとしたことを覚えています。人生はいつ終わってもおかしくないのに、終わりを自覚する機会はほとんどない。目の前の平穏がずっと続くと思ってしまう。

しかし現実には、平穏がずっと続くことはないと思うのです。

ある日、車が追突してくるかもしれない
旅行の日、乗った飛行機が墜落するしれない
前触れもなく、不治の病にかかるかもしれない

確率の低い危機を日々強く感じることはないのですが、危機を感じないからといって、危機がなくなり誰もが永遠に生きられるわけではないのです。

高校生ながら人生の短さに腹落ちしてからずっと、確かなものを探していました。

何かを成して何者かになりたい願望

大学生、社会人になった自分は、いつもどこかにゴールを求めて確かなものを探していました。「生き方」について、わかりやすい答えがないことを理解していても、思わず探してしまうのです。

自分が何者かであるように信じたい
大きな何かを達成したい
自分の信じる何かを成したい

脅迫的とも言える、強い達成欲に突き動かされ続けてきました。何かを達成して次を探して、また達成して次を探して。そんなことをずっと繰り返していました。

人生の終わりを意識する体験

2018年の冬、人生で最も大きく体調を崩しました。そんな危機が訪れるとは少しも思ってなかった自分にとって、体調を崩す経験は大きな衝撃でした。

その経験は自分に人生の終わりを意識させるものでした。

「人生が終わる日は、いつ訪れるかわからない」
「もしかすると、やりたいことの前の日かもしれない」

人生の終わりを意識することは、自分の中の「明日死んでもいいように生きたい」という言葉の意味を少し変化させました。

いつ終わるかわからない中で、やりたいことすべてをやりきることができるのだろうか?

人生の終わりがいつ来たとしても、やりたいことは常に残ってしまうのではないか?

「後悔をなくすこと」が幸せに近づくことだと思っていた自分の考えが、少しずつ変わっていきました。

他人の人生の終わりを意識する問い

一ヶ月ほど前、ある友人から相談をもらいました。

隣に座っている親しい人から「人生を諦めたい」「すべてを投げ出したい」と言われたとき、自分はどんな声をかけてどんな行動を取ればいいだろう?

とても難しい相談でした。選択肢は無限にありそうで、どの選択も正解ではなく後悔が残りそうな状況だと思いました。

色々な角度から返事を考える中で、気づくことことがありました。

人生からの大きな問いは、自分に答えを求めていないのではないか。

質問という形を通して、自分の「生き方」そのものを問われているのではないか?

困難な状況において、どんな選択をしても後悔がなくなることはなく、自分が選べる選択肢は常に一つで、できなかった選択肢は残ります。

後悔の念は、きっと人生の終わりの日でも残ってしまうと感じました。

人生から問われているのは「意思」と「姿勢」

何をしても何かの後悔が残ると考えたとき、自分の中で相談への向き合い方が変わりました。

変わることのない現実をどのように受け入れるか
なくならない後悔にどのように付き合うか
自分が納得できる選択肢を選ぶにはどうするか

困難だとしても、受けとめて選択する。それしかできないと思いながら、相談に答えました。

きっと、どうあるべき、どうしたらベターか、みたいな話ではないんだろうね。相手の言葉をそのまま受け取るのではなく、言葉に先にある相手の気持ちを自分なりに深く考える。その上で自分が相手に対してどうしたいか。それが大事かもしれない。

困難な状況に直面して人生そのものに問われることは、何を選ぶかよりも、どうして自分がその選択をしたいか。正しい答えを探すより、選んだ選択をどう捉えてより良いものにできるか。

現実を自分なりに捉える「姿勢」と、自らの「意思」で選択をすること。その2つが問われていると思いました。

姿勢:現実のどこに光を当てるか

姿勢とは、目の前の現実をどのように捉えるか。同じ状況を見ても一人ひとり感じ方が違う中で、自分はその状況のどんな側面に光を当てるのか。人に向き合う場合では、その人の何を信じるかということかもしれません。

カウンセラーがクライアントに臨む「態度」に近いものだと思います。

"態度"とは、相手が心の中に何を持っていると信じるのか、相手のどんな側面に関心を寄せ続けるのか、ということである。

べとりん|cotree|"態度"と心のケアに寄せる思索メモ

同じように、人が人生に臨む「姿勢」が大切だと思うのです。

目の前の人は人生を諦めたいと言っているけど、本当にそうだろうか。
目の前の現実は、自分にとって苦しいものなのか、楽しいものなのか。

現実をどのように捉えるかは、自分が決められると信じています。少しずつだとしても、人は願う方向に進めると信じています。

意思:何を選び、何を選ばないか

意思とは、捉えた状況に対して、自分がどんなことをしたいのか。極端に言えば、たとえ自分以外のすべての人が反対したとしても、自分はどんなことをしたいのか。

大切な人と一緒にしたい。支えたい。支えられるようになりたい。
困難は多いかもしれないけど、日々を楽しいものにしたい。

言い換えると、何を選ばないかを決めること。自分の尊敬する上司からもらった言葉があります。

意思決定はリスクを取ることだ。リスクがない選択はただ流されているだけ。意思のある選択には常にリスクが伴う。選べない選択肢があるとしても、強い意志を持って選び抜くことが大事だよ。

「何をしたいか」を決めることは「何をしたくないか」を決めることでもあります。

大切な人を見過ごすことはしない。
人の人生を諦めることはしない。

「何をしたいか」「何をしたくないか」など、色々な角度から自分の意思を照らすことで、自分の気持ちの解像度を上げることができます。

自分なりの「意思」と「姿勢」を持つ

たとえやり残しがあったとしても、自分の意思と姿勢に嘘偽りがなく納得感があれば、きっとどんなことも受け入れられると思うのです。

「納得できるまでやったからいいじゃないか」
「自分のできることはいつもしている」

どんなことを達成したかではなく、「自分が大切にしたいことを大切にできるか」「やりたいことを、やりたいように、やれているか」が大切なのだと思います。

誠実で真摯であろうとする姿勢
やさしくつよくあろうとする姿勢
いつも楽しむための工夫をする姿勢
常に冒険者たろうとする姿勢
世界を明るく捉える姿勢

自分の意思と姿勢を考えていると、「明日死んでもいいように生きる」という言葉の意味が再び変化していきました。

日々、大切な何かを見過ごしてはいないか
いま、ここで、やりたいことができているか
いまの気持ちは、満ち足りているか

「いま、ここ」において、自分なりの意思と姿勢を持てているか。それを実行できているか。そんなシンプルな意味になってきました。

スティーブ・ジョブズの有名な言葉は、人生に対する意思と姿勢を問うものです。

「もし今日が自分の人生最後の日だしたら今日やる予定のことは私は本当にやりたいことだろうか?」

それに対する答えが「ノー」の日が何日も続くと私は「何かを変える必要がある」と自覚するわけです。

不完全さを受け入れて、人生を受け入れる

臨床心理の第一人者に、河合隼雄さんという方がいます。(cotreeでも個人的にも河合さんが書かれた本を読んで勉強させてもらっています。)カウンセリングの終わり方に関する文章が、心に残っています。

完全な人間などいない。

不完全な人間が、不完全ながら私の力で生きていきますというときにカウンセリングが終わる。

カウンセリングの実際問題|河合隼雄

自分の生き方の不完全さを受け入れ、完全に不完全さを受け入られたとき、人は自立できる。一人で生きていくことができると、河合さんは言います。

カウンセリングの終わりと向き合う姿勢は、人が人生と人生の終わりへの向き合い方に共通するものがあります。

やりたいことはまだまだある。人生の終わりまでに完全にやりきることができないかもしれない。ただやりきれないことがあったとしても、日々懸命に向き合い、自分なりにできることはやっている。自分の不完全さを受け入れて、自分なりの意思と姿勢を貫いていく。そして日々と人生が充実している。

「長い人生で何を成すか」ではなく、「日々をどのように生きていくか」が大切だと思うのです。


たとえ明日世界が滅亡しようとも、今日と同じ日を生きたい

ずっと大切にしてきた言葉ですが、「明日死んでもいいように生きる」と答えきることに抵抗感がありました。

何かを諦めてしまうようなニュアンスがあり、自分の中の大切な価値観の一部を含んでいないような気がしていました。


そんなことを思いながら過ごしていると、星野道夫さんが書かれた「旅をする木」の中で、すてきな言葉を見つけました。

「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える。」

人生と世界の終わりを受け入れてもなお、 自分の意思を貫こうとする。未来の希望を信じ続ける姿勢。

人生の終わりにすることは何も特別なことでなくていいのだと思いました。

今日していることを人生最後の日もしたいと思えることは、とてもすてきだと感じました。


「意思」と「姿勢」を大切にしながら、日々を過ごす

そして幸運なことに、自分は今、明日人生が終わるとしてもやりたいと思えることを、日々できているということに気づきました。

たとえ明日、人生が終わるとしても、
・いま大切だと思う人のそばにいたい。
・アドレスホッピングな生活をしたい。
・cotreeを通して人の物語を支えたい。
・noteを通して自分と向き合いたい。

そう思えるくらい、日々が充実しています。

自分の「生き方」というものを考え、noteを書きながら向き合うことを通して、日々の充実に気づくことができました。

このnoteを書きながら、これまでのさまざまな幸運と自分の周りにいる人、出会ってくれたサービスへの感謝の気持ちでいっぱいです。

自分はきっとこれからも、色々な人に出会い色々な経験をして少しずつ変化をしていくのだと思います。ただ自分がどれだけ変化しても、大切なことはいつも少しだけなのです。

自分なりの「意思」と「姿勢」を大切にしながら、日々を過ごしていきたい。

とても不思議な気持ちですが、このあたりで筆を置きたいと思います。最後までお読みいただき、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

まとめ

・困難な状況は、自分に「生き方」を問いかける
・人生の終わりは唐突で、常にやりたいことが残る
・生き方は「意思」と「姿勢」で示される
・意思:何を選び、何を選ばないか
・姿勢:現実のどこに光を当てるか
・自分なりの「意思」と「姿勢」があれば、それでいい

あとがき

最後まで読んでいただきありがとうございました。

実はこのnote、書くのに一ヶ月ぐらいかかってしまいました。書いては消して書いては消して、自分の中にある大切な点と点を紡いでいくような時間でした。

「生き方」という壮大なテーマに対して、現時点での自分なりの想いをなんとかまとめられたことをうれしく思います。

考えをまとめることで自分と世界が変わることがほとんどないのですが、日々を充実させるためには、自分がいま考えることへの解像度をあげていくことが大切だと感じます。

このnoteが、読んでくれた方の、何かのきっかけの一部にでもなれたら、心からうれしいです。ありがとうございました。

TOP画像は、沖縄・波照間島。日本有人島最南端の碑と一緒に。

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最後まで読んでいただきありがとうございます。