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1月16日(火)

起きぬけにこの文章を書いている。昨日も書こうと思ってnoteの真っ白な画面を開いたが、何も書けなかった。ので、リベンジ。


相変わらず、せっせと詩を書いている。自分のペース的に、月10本ほど仕上がればよいらしく、11月、12月はそれぞれ10本ずつ、1月は4本ほど仕上がった。ある程度まとまったら本にしてみたい、まだ先の話だが。

声かけてもらった方と友人10人ほどに書いた詩を読んでもらって、感想をもらった(もし読んでみたいという方がいたらお声かけください!)。もらう感想の書き方も内容も、本当に人それぞれで、どの感想もたぶん30回ずつは読ませてもらった。感想に対する返事を考える時間も多めにもらった。自分にとって大切なものをやりとりしている気がして、相手にどう伝えるかというよりも、自分が何を感じているかを感じるために、返事の仕方や内容を何度も考えてしまう。

書いた詩を読んでもらうことにはなんとも言えない恥ずかしさがあるが、詩を書く行為は昔から馴染みの活動のような気がしている。これまでに詩を書こうと思って書いたことは数えるほどしかなかったのだが、不思議だ。


年齢的なタイミングなのかコロナで色々な前提の変化の帰結なのか、身の回りで転職する友人が多い。

極めて個人的な見解として、その人がどんな仕事をするかよりも、仕事を選ぶ考え方や価値観をその時に合わせてつど更新していくことの方が大切だと思う。どんな仕事をしていても、その人はその人のままだから。祈ることがあるとすると、その人自身が内から輝くような、自らの実存を感じられるような活動に関わっていてほしい。切に。

個人的には、働き始めた当時から「仕事」という概念をうまく捉えられない。と書いたが、「仕事」と「仕事ではないもの」の境界にはどんなものなのか、ということに興味があるのかもしれない。仕事っぽくないものを仕事にしてみたいよね、なんとなく。仕事ではなくてもやってしまうことを仕事にしたい、のかもしれない。


わからない言葉をつど調べてはいたが、もっと偶然に、言葉に出会いたくて国語辞典を買った。あ行から読み始めたり適当なページを開いてみたり調べた言葉周辺を読んでみたり、人生の中で最もおもしろがりながら国語辞典を読んでいる。



去年から友人とリアルスペースをのんびりと運営している。楽しい。

「集まりたいけど、どこかのお店に行くよりもゆったりしたい。かといってれぞれの家に行くのはちょっと大変。」みたいな狭いニーズを満たせないかと思っている。料理してごはん食べたり、食べたかった料理を取り寄せてみんなで食べたり、鍋しながらだらだらお酒飲んだりボードゲームしたり、そういうことしたいという方がいたら、お気軽にご連絡くださいませ。

他の動機に、自分たちが遊べる場所を自分たちで作ってみたかった願望があった。コロナ禍ですべてがオンラインに移行して、物理的な空間で気軽な会がやりづらくなったことと、この一年自分自身が自宅を借りて定住するようになって生活をしたりインテリアに興味を持ったりしたこととが、一つ形になったような気がしている。

何もない空間に意味を与えること、生活の延長線上にある行動から何かを感じること、人が人として生きるためにとても大切なことだと感じるので、これからもやっていきたい。このスペースで働いたりイベントをした後に入る風呂がまじで気持ち良い。


たぶんこの日記に書かれていることは、美学の一端なのだろうと感じる。自分が何が好きで何が嫌いなのか、何をおもしろいと感じて何をつまらないと思うのか、人がどのような状態であってほしいと祈るのか、自らがどのような状態であってほしいと祈るのか。そういった、極めて個人的な感覚を元にした考えを、おそらく美学と呼ぶのではないかと思う。

なんだか大層な言葉を並べてしまったが、今日も床に溜まった埃を掃いたり観葉植物に水をあげたり自分で食べるための米を炊いたり風呂で体を洗ったり歯を磨いたりゴミを捨てたりする。

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