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2月1日(木)

詩を読んでくれた人から「作者を創作に突き動かすものはなんだろう」と聞かれて、ここ数日うんうんとうなりながら考えていた。

メモ帳に書き散らしながら考えているけど、すらっとまとめられない。表現したいこと、自らの表現によって感じたいこと、生きる上で大切にしている感覚、必要不可欠な感覚を得ることの周辺に何かあるような気がしている。それは何だ。

生きている以上、生きることしかできない。気づいた時には生まれ落ちていたので、どうせ生きるなら、生きる張り合いのようなものを持ちたい。生きなければいけない、というわけではない。生と死は常に自分のそばにいて、それらは対等に存在している。毎日少しずつ生きていて、毎日少しずつ死んでいる。生きながら死んで、死にながら生きている。

こういう感覚に対する感触を得ることは、創作をしている一つの理由になるのかな。何か素晴らしい感触を得るために、というよりは、その感触を頼りに生きている、というような類のものかなぁ。


あらゆる節目の食事がうなぎになればいいのに、と思うくらいにはうなぎがすき。これもおいしかった。


周年noteを書くのが大変だった。

当初はもう少しまとまりのある文章を書いていた(たぶん去年書いたnoteに影響された)のだけど、いまの気分ではなかったので、書き直した。読んでくれた人から「とりとめもない文章こそが、その人を表すこともあるよね」と言われて、そういうタイミングもあるだろうなと思った。この文章を来年読み直すのをいまから楽しみにしている。


人とおしゃべりしたりお茶行ったりする予定が、ぽつぽつと入ってきた。ほどよいペースで人と話すことは、自分にとって大切なことだと思われる。何を話しても話さなくてもいいけど、意思をやりとりすることによってでしか得られない何かがある。それは雑談でも相談でも形の定まらないやりとりでもいい。人間というものに一体何を期待しているんだろう、自分は。


世田谷美術館で開催されていた『倉俣史朗のデザイン 記憶の中の小宇宙』展、とてもよかった。ほとんどのスペースが写真撮影不可だったので写真はあまりない。

商業的な意図ではなく、あくまでも自分のつくりたいものをつくる、自分の感覚と記憶、夢の中で見たことと照らしながらつくる、というような美学を感じられる作品ばかりだった。インタビュー映像の中で、「つくったものが結果として商業的に使われることはあるが、できれば使わないでほしい。」とまで言っていた。


代官山に新しくできたブルーボトルにふらっと寄った。相変わらずカフェラテがおいしい。

先行発売されてたハイパーピュア セラミックカップ、かわいかったな。


押上のスペースで作業した後(この文章も押上で書いてる)は、できるだけ下にある銭湯に立ち寄る。家の風呂よりも、身も心もさっぱりするような気がする、どうしてなんだろう、水がいいのかな。そこのお湯はかなり熱くて長風呂はしないけど、水風呂があるので、お湯と水風呂とで交互浴して、浴室内にある椅子に座って整ってる。あと湯の手前に広めの休憩所があって、そこでテレビを見ながらだらだらするのもとてもすき。


1月もこつこつ書いて、10篇上がりました。よかったら読んでください。



最後まで読んでいただきありがとうございます。