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漂流の人(1)

暮れの実家に、妹の姿は無かった。母は「いつもは手が掛かるのに、いないと寂しい」といったことを呟いていた。私が帰ってきたことを喜んでいるのだろう、その呟きに悪意は無かった。妹は今年の春に婚約をして、そのまま相手の男の家に転がり込んでいた。私は妹の婚約相手を知らない。妹は婚約相手を父と母には紹介したようだが、私には紹介できないようだ。私が何をして生計を立てているのか、婚約相手の彼に説明が出来ないのだろう。

私は今、東京のIT業界でエンジニアをしている。登録先の人材派遣会社から紹介を受けた会社で、その会社では勤務して2年程度だ。この会社では毎年4半期に一度、引き続き業務委託契約を結ぶのか否か、契約更改があるのだが、8回目の契約更改を受けたばかりだ。ヘルプデスクのオペレータ業務は、お客様からの入電を受け不具合を解決するという業務であり、もともとITに興味があった私は、他のオペレータよりも上手く業務に順応することが出来た。オペレータ業務は24時間365日休み無く実施されているのだが、この年末年始に掛けてまとまった休みが取れたので、ふと実家に帰省したのだった。東京から新幹線で4時間掛かる。

妹の結婚を知ったのは、今年の夏に掛かってきた母の電話だった。その日は夜勤明けで睡眠をとっていたのだが、西日でオレンジ色に染まった8畳1間の部屋をけたたましい着信音が駆け巡った。会社が配布した携帯電話ではなく、私が個人所有していた携帯電話から着信音が鳴っていた。私はその着信音を忘れていたので、一瞬躊躇ったが、ディスプレイに見慣れた番号が表示されていたので、少し息を整え電話に出た。妹の婚約相手が挨拶に来たという報告をそこで受けた。母は私の体調について、環境について尋ねてきたが、私は無難な回答をして、余計な心配をさせないよう努めた。ひどく下痢気味で、ストレス性過食症から、体重が増えていたときだった。そんな中、妹の結婚の話題が突然現れたので、自分は十分理解できていなかった。わかった、そうか、といった生返事を続けていたのだろう、通話はすぐに終わった。妹は29歳であり、結婚の適齢期を迎えていたので、私はよかったと思った。ただ、ふと、通話での母の言葉が、脳裏にこびりついた。「あなたは、結婚を考えているの?」

----(続く)----

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