【考察】物語への反逆~Forestとプリンセスチュチュ~

※『Forest』と『プリンセスチュチュ』のネタバレを含みますので、必ずプレイしてから読んでください。

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――むかしむかし、一人の男が死にました。

――男の仕事はお話を作って語ることでしたが、死には逆らえません。

男の最後のお話は、美しく勇敢な王子が大鴉を退治するお話でした。もう永遠に戦いの決着は付きません――

――さぁ、お話を聞かせておくれ。

水辺で踊る美しい王子に憧れるアヒルの姿から物語は始まる。

全寮制バレエ学校の日常。

バレエのレッスンの様子が丁寧に描かれる。

これは新鮮で楽しい。

この作品の魅力の半分は、間違いなく、バレエという題材が担っていると言えるだろう。

そして、クラシック音楽が芸術性を引き立てている。

「あたしが何かしてあげられたら――死んでもいい」

この言葉に反応したドロッセルマイヤー。

彼の陰謀が断続的に不協和音として挟み込まれる。

観客は終盤に至るまでその描写の意味を知ることはない。

バレエ学校の日常が物語のベースラインを流れ、ドロッセルマイヤーの断続的な不協和音が、終盤の真実の暴露と同時に、やがて主旋律と一致することにより、最後に大きな感動をもたらすことになる。

これは伏線の醍醐味と言えるだろう。

全体の物語は大きく二部に分けられる。

すなわち、第一部である卵の章と第二部である雛の章。

第一部では理想的で典型的とも言える美しいラストシーンを迎えるが、

第二部ではよりドロドロとした愛憎劇が繰り広げられ、物語論への跳躍とともに終幕を迎える。

特に、第一部と第二部では物語の印象がガラッと変わり、第二部では冒頭からよりグロテスクな闇の部分が語られるため(いわゆる鬱展開と呼んでも良い)、視聴の継続が苦しくなる観客も多いように思える。

幸福な終わり方をした第一部の続きである第二部では、その幸福が崩壊させられる。

全体として和やかな雰囲気であった幸福な物語が、シリアスでグロテスクな展開の連続となることで、より大きな胸の痛みを観客に与えることになる。

これは典型的な悲劇のパターンとも一致するだろう。

この作品の物語はよく練られていて、個々のエピソードも無駄がなく起承転結がはっきりとしていて、安心感がある。

取り戻してゆく王子の心のかけらが“寂しさ”や“悲しみ”など負の感情から始まったことも、この物語の展開に不可欠な要素として効果的に機能している。

また、心のかけらを取り戻すことは、同時に、記憶を取り戻すことにもなっている。

記憶喪失の王子がすべてを思い出した時、さらなる悲劇への幕が上がる。

一つ一つ真実が明らかになってゆく伏線の妙がよく出来ていて、シリーズ構成の完成度が高い。

第一話。

小鳥を助けようとして窓から落ちた王子を助けるために、あひるはプリンセスチュチュに変身する。

――王子様を助けたい。

あひるはその想いからプリンセスチュチュとなり、そして、ただのアヒルに戻ることを選んだ。 最初から最後まで、あひるはその想いを貫いた。

そして、それは、ドロッセルマイヤーの陰謀を打ち砕いた。

王子への愛を告白すると同時に光の粒となって消える。

それが、プリンセスチュチュとなったあひるに与えられた物語上の役割だった。

しかし、あひるはそれを選ばなかった。

第一部のラストでは、“言葉はなくとも、踊りで想いを伝えることができる”という機転を利かせることで、悲劇を回避し、ハッピーエンドを勝ち取った。

第二部のラストでも、“ただのアヒルでも、踊ることができる。自分自身の物語を作ることができる”という逆転技で、悲劇を回避し、ハッピーエンドを勝ち取った。

――与えられた物語、運命を否定し、自分自身の物語を作る。

それが、この作品の大きなテーマである。

第二話。

アリクイ実の挫折。

バレエスクールに通う女の子の最も典型的な悲劇を最初に持ってくる。

この単刀直入さは特筆すべきだろう。

第二部でも、王子が黒鳥となって最初のエピソードで友人のぴけが生贄にされそうになる。

通常はクライマックスに置かれることが多いであろう重要エピソードをあえて導入に置く配置は、中だるみを招くリスクもあるが、面白い試みと言えるだろう。

「悔しいとか嫌いだとか忘れて、アリクイ実ちゃんのバレエを見せて。きっと、ずっときれいだよ」

「素直に、自由に。そう、それがアリクイ実ちゃんのバレエなんだから」

「そう、この子の踊りは、決して格好良くないけど、自分らしさに溢れてるんだわ」(第六話・パウラモニ)

素直に、自由に、自分自身の物語を作る――これは、この作品のテーマである。

特別クラスのるぅがパ・ド・ドゥの相手に選んだのは下手っぴのあひるだった。

るぅのリードにより、いつもより上手に踊ることができたあひる。

このシーンはあひるとるぅの貴重な仲の良いシーンであり、ラストを観てから見直すと感慨深いものがある。

第四話。

見習いクラスに落ちてしまい、一人で練習するあひる。

ペンギン先生がピアノを弾いてくれ、溌剌とする。

様子を見に来たぴけとりりえも一緒に練習することに。

そして、猫先生が現れ、初級クラスへの昇級を許可してくれた。

この一連の流れは非常に温かみがあり、作品中でも屈指の優しいエピソードと言っても良いだろう。

「あなたがどれだけ辛かったか、私には分からない。

 でも、もう十分に悲しんだということは分かる。だから今は静かに眠っていいの。

 もう、悲しまなくていいから。」

――バレエを一緒に踊り、人の心を癒す――それが、プリンセスチュチュ。

最近の魔法少女作品のようにバトルはしない。

ただ、癒すだけ。

慈愛に満ちた声と表情。

それがとても新鮮で、優しい気持ちになれる。

「夢を見続ける人と夢から覚めた人はどちらが幸せ?」(エデル)

第六話。

巡業バレエ団のダンサー・パウラモニの挫折と再起が描かれる。

このエピソードは挫折を経験したことのある者にしか分からない内容であり、明らかに、子供には分からないであろう物語と言っても良いだろう。

ここで、物語が暗転する。

ここまでは予定調和的と言っても良い展開だった。

王子に取り戻された心のかけらは、寂しさ、悲しみ、慈しみ。

そして、おそれの心を取り戻した時、みゅうとは苦しみに倒れ、プリンセスチュチュはその行為の罪悪感に苛まされることになる。

――報われぬ献身。

第七話。

暗転した物語は急展開を見せる。

「プリンセスチュチュなんて意味ない。もうおしまいにしよう」(あひる)

プリンセスチュチュとしての役割を放棄した、あひると、

もう一人のプリンセス、プリンセスクレールへと変身する、るぅ。

そして、“時間の狭間”に住み、“時の抜け穴”を使うドロッセルマイヤーの出現方法と、彼の悪趣味な物語論の一端が明かされる。

それは、ギリシャ悲劇の再現を求めているようにも見える。

もちろん、悲劇作家を彼のような性格であると決め付けることは偏見であり、悲劇そのものは全否定されるべきではないことに留意する必要はあるだろう。

第八話。

騎士としての本性を現したふぁきあと、王子から恋心を問われるあひる。

事態はクライマックスへと大きく動き出す。

「あたしはあひる。本当はただの鳥。でも、王子様の瞳に映っているのは、きれいなドレスをまとったプリンセスチュチュ。あたしじゃない」

第九話。

第八話での事態の急転を経て、あひる、るぅ、ふぁきあ、それぞれが思い悩む姿が描かれ、最後にプリンセスクレールの覚醒で、次回へと続く。

この緩急の付いた構成を高く評価したい。

一気にクライマックスへと突き進むのではなく、

事態の急転を受け止め、咀嚼し、考える時間を与える。

登場人物たちが思い悩む姿を丁寧に描くことで、事態の急転がもたらした影響をつぶさに感じ取ることができ、それにより、さらなるクライマックスへの展開がより感情移入しやすくなる。

ここに、シリーズ構成の真髄があるように思われる。

第十話。

二つの謎が明かされる。

一つは、ふぁきあの過去と宿命。

もう一つは、プリンセスチュチュの正体。

魔法少女作品において、ヒロインの正体が明らかになるシーンは典型的なクライマックスの一つである。

第一部の残り三話という段階で、ついに正体を暴露させた。

ここからノンストップでクライマックスへと突き進む。

第十一話。

王子の恋とるぅの嫉妬。

愛の篭った贈り物。

王子とプリンセスチュチュの逢引き。

そして――。

――憎しみの篭った愛。

王子の唇と心を奪ったプリンセスクレール。

第十二話。

アダルティーな雰囲気で闇の底で添い寝する王子とクレール。

親御さんと一緒に見たらお茶の間が凍りつくこと請け合いであろう。

「一人の王子に姫君は二人もいらない。

――ねぇ、エル・ドロッセルマイヤー。どこかで見ているんでしょう。

私が最高のお話を聞かせてあげるわ」

「L(エル)」という単語には、“神”という意味が含まれているという。

るぅは、町がドロッセルマイヤーの物語に支配されていることに気付いていた。

ただ、この重要な事実はあまり深められることはなく、最終話でドロッセルマイヤーの口から以下のように語られるだけであった。

「町が私の物語に支配されていることに気付いていたのに、大鴉の偽りの筋書きを信じ、こうして絶望の底で朽ち果てようとしている」

地下道の奥へと進みながら、絆を深めるあひるとふぁきあ。

この道中の描写が終幕への期待感を大いに煽っている。

最高の舞台、最高のクライマックス。

「とびきりの悲劇でこのショーの幕を引いておくれ。あひるちゃん」

ドロッセルマイヤーが望んだ悲劇。

王子に心を戻し、物語を動かしたのは、あひる。

『王子と鴉』の物語の筋書きに定められた運命。

愛の言葉と引き換えに死を選ぼうとするあひるを止めたのは、ふぁきあだった。

「プリンセスチュチュの運命を笑って受け入れることができるようなやつは、お前以外にいない。

だから、お前は消えちゃダメだ」

「運命など、俺が変えてやる!」

運命に抗うことを高らかに宣言するふぁきあ。

重傷を負いながらもみゅうとの剣を砕くことに成功する。

見事に運命に抗って見せたのだ。

そして、チュチュが選んだのは、“言葉ではなく、踊りで気持ちを伝える”ことだった。

「台詞のないバレエでは、体の動きが言葉の代わりになります」(「猫先生愛のレッスン」より)

――バレエに始まり、バレエに終わる。

それが、この物語である。

ついに、チュチュとクレール、あひるとるぅのバレエ対決が実現する。

あひるはバレエが下手な初級クラスの劣等生であり、るぅは特別クラスの上級者。

その純然たる事実が重くのしかかってくる。

私は以前、バレエ教室の発表会を観たことがあるが、ダンサーの技量の違いにより明らかに演技の質と美しさが違っていた。

ダンサーの技量により演技可能な技が決まってくる。

技量の高いダンサーの踊りの方がより演技は美しい。

それは純然たる事実であるように思われる。

「所詮あなたは、プリンセスチュチュの力を借りているだけの、見せ掛けだけのプリンセスなのよ。あひる」

「諦めない。私の思いは、私のものだから。今、私はプリンセスチュチュ。諦めたら、ただのアヒルに戻るだけ。」

一人で踊るパ・ド・ドゥ。

その踊りは王子を目覚めさせた。

このバレエシーンは圧巻である。

おそらくアニメ史に残るであろう。

つま先をプルプルと震わせる様子まで描写されている。

まさに圧巻であり、何度見ても感動する。

私は以前、バレエ教室の発表会を観て、こう思った。

――舞台の上のバレリーナたちは、皆、優雅で美しい。

普段はどんな子たちなのかは知らない。

それは、魔法と言って良い。

ステージに上がる時、プリンセスに変身するのだ――。

――誰でも、プリンセスになれる――。

第一部には、そのようなメッセージが込められているように思える。

そして、第二部は、それへのアンチテーゼとなっている。

――本当はただのアヒル。プリンセスにはなれない。でも、自分自身の物語を大切にしよう――。

どちらも真実の一面であるように思える。

トップダンサーになれる天才がいる陰で、脇役に甘んじるしかない多数のダンサーたちがいる。

トップになれた者だけが幸せになれるのだとすれば、常に多数の人たちは不幸になる。

――バレエに始まり、バレエに終わる。

第二部も第一部と同様、バレエ学校の日常がベースとして描かれる。

心のかけらはまだ残っており、かけら探しの物語が続いている。

第十四話。

冒頭で幸せそうにパ・ド・ドゥを踊るチュチュと王子。

しかし、第二部は猫先生の大切なバレエシューズの切り裂き事件、王子の豹変、ふぁきあの停学、親友との恋敵関係と、観ていて辛くなる展開が続く。

第一部で完結された美しい物語を打ち壊すような展開。

第一部を“光の物語”とするならば、第二部は“影の物語”と呼んでも良いかもしれない。

ロマンティックで優しい物語であった分、それが壊された時の胸の苦しさは何倍にも増幅される。

途中で見続けるのが辛くなってしまった人も多いのではないだろうか。

この“グロテスクな”物語は、やがて、予想外の方向へと走り出す。

――メタフィクション。

ドロッセルマイヤーの物語に支配された町。

物語に支配された登場人物たちが創造主に反逆する。

第十五話。

豹変した王子と部屋から出て行ったふぁきあ。

王子をめぐり、親友のぴけと仲たがいしたあひる。

クレールはあっさりと真相を暴露する。

そして、大鴉の化身となった王子が、ぴけの心臓を取り出そうとする。

――心臓を捧げる。

それは、究極の愛のかたちと呼んでも良いだろう。

相手に自分の命を捧げても良いと思うほど相手を愛する。

「僕だけを愛して。憎しみは他のすべてのものに」

愛と憎しみは表裏一体である。

愛が深いほど、憎しみは膨れ上がる。

ただ一人を愛し、他のものすべてを排除する。

この世界には、愛する人と自分の二人しか必要ない。

これも、“一途な愛”と言えるだろう。

しかし、多くの物語において、それは悲劇の引き金となる。

「猫先生、命を捨てても良いほどに強く思ったとき、愛は最も美しく輝くんでしょうね」(みゅうと)

「そうかもしれません。ですが、それだけでは愛は輝くことはできません。それだけでは結婚できないのです」(猫先生)

「るぅなんていないって言ったでしょう」

「あたし、どうしてもそれが信じられないの。るぅちゃんはるぅちゃんだって気がするから」

あひるの直感は正しかったことが、後に判明する。

第十七話。

ナルシストのふぇみおが活躍する楽しい回であり、それまで陰惨としていた雰囲気を一転させ休憩を入れるような回であるが、

自己愛の重要性を端的に示すエピソードにもなっていると思われる。

自分を愛する者は、心臓を差し出したりはしない。

――自分の生を大切にすることは、幸福になるための前提である。

自己犠牲や献身は尊いものであると我々の目に映る。

けれど、それは決して幸福な結末とは呼べない。

自己犠牲はその行為自体が悲劇性を有する。

ゆえに、ハッピーエンドを求めるならば、自己犠牲による結末であってはならない。

しかし、最終話のあひるの行動は、やはり献身であったと言えるだろう。

自分が傷付くことも厭わず、愛する人を救うため、闇に堕ちた人々を救うため、精一杯の行動をする。

その崇高さにふぁきあは涙を流し、我々は胸を打たれる。

ここで、もし、踊りを終えたあひるが力尽き、倒れていたとしたら、物語は悲劇となっていたことだろう。

そして、悲劇性と引き換えに、さらなる崇高さ、芸術性を纏っていたことだろう。

私の知るメディア芸術の名作たちも、そのような結末をもって芸術性を獲得している。

しかし、この物語はハッピーエンドで終わった。

それは、この作品が前提として子供のために作られたものであったろうことがその理由として考えられる。

――子供のための物語は、ハッピーエンドで終わらなければならない。

これは、不文律として存在しているようにも思える。

しかし、『人魚姫』は、そうではない。

『幸福な王子』、『よだかの星』、『蜘蛛の糸』、あるいは、『フランダースの犬』も、そうだ。

子供のための物語――童話は、悲劇で終わるものも存在する。

あるいは、一人の異性を奪い合い、愛と憎しみが交差するドロドロの愛憎劇などは、積極的に子供に見せるような物語であるとは言えないかもしれない。

その意味では、まさに、愛と憎しみをめぐる物語である『プリンセスチュチュ』は、大人向けであると言える面もあるだろう。

その顕著な例としては、第六話、パウラモ二のエピソードであろう。

魅力的なダンサーに憧れて研鑽を積んできた彼女が、自分の才能の限界を知り、絶望に暮れる。

自分は憧れていた存在にはなれない。

それでも、別の分野で、自分らしく輝くことはできる。

このエピソードは、挫折を経験した者でなければ理解できないだろう。

明らかに、子供向けではない。

ただし、“将来、挫折を経験するであろう子供たち”へ向けて書かれたものであると解釈することもできる。

――今は理解できないかもしれないが、いずれ、分かる日が来る――。

そのような側面も、確かに、童話の中にはあると言えるだろう。

また、「誰かの操り人形なんかじゃない。自分の気持ちを大切にしよう」

このメッセージは、親の支配から離れ、自我に目覚める頃(いわゆる反抗期)の児童へ向けたものであると言えるだろう。

広義の「児童文学」には、ローティーン向けの「絵本」又は「童話」から、ハイティーン向けの「ヤングアダルト」又は「ジュブナイル」までが含まれると解釈しているが、

ドロドロの愛憎劇を扱っている『プリンセスチュチュ』は、その中でも、ハイティーンのために書かれた「ジュブナイル」又は「ヤングアダルト」のカテゴリに入るのかもしれない。

その意味では、ローティーン向けの「童話」とは一線を画すと考えた方が実態に即していると言えるのかもしれない。

第十八話。

「騎士は二つに切り裂かれて死ぬ」という役目を果たさず、生き延びた、ふぁきあ。

死に場所を失った騎士。すなわち、彷徨える騎士。

彼はすでに物語の登場人物としての居場所を失っていた。

それが、第二部の序盤では図書館で本を読んでいる姿ばかりが目立ち、影が薄い印象のふぁきあの扱いに表れているように思える。

「猫先生、汚れてしまった愛も元に戻すことはできるのでしょうか」(ふぁきあ)

「汚れた愛とは何なのか。オディールの愛は汚れていると誰が言えるのでしょう」(猫先生)

『白鳥の湖』で、悪魔の力を借りてオデット姫に化けたオディールは王子との婚約を手に入れる。

それは、汚れた愛、偽りの愛であったのだろうか。

――いくら愛を囁いても、誰からも愛されない、プリンセスクレール。

彼女は物語における悪役でありながら、幾度となく弱さを垣間見させる。

その不幸な姿には同情を誘われることになる。

物語上の役目を失った、ふぁきあと、死に場所を求めて彷徨う騎士。そして、“結末の破られた物語”。

この回には終盤へと向けた大きな鍵が散りばめられている。

――紡ぎ手のいなくなった物語は、その結末を求めて、さまよっています――。

図書の者たちにより結末を破られてしまい、永遠に終わることのない物語の中で彷徨うこととなった、幽霊騎士。

彼はふぁきあに物語のあるべき結末を夢に見させ、自分に死に場所を与え、物語の結末を紡がせた。

つまり、永遠に未完のままとなってしまった物語を、ふぁきあとチュチュが完結させたのだ。

この構図は、そのまま、この作品全体に通じているものである。

――戦場のバレエ。

プリンセスチュチュは戦わない。

血なまぐさい暴力の前では、芸術は無力である。

「私と踊りましょう」

彼女の言葉は届かない。 チュチュの声を無視し、幽霊騎士は剣を振るい、彼女の体を切り刻む。

ボロボロになりながらも、チュチュは語りかけ続け、踊り続ける。

「どんなに剣を振るっても、あなたの心は満たされないわ」

「そんなに憎しみを抱え込んで、何が欲しいの。それは本当に恋人の命より大切なもの?」

「もう戦いはやめて」

ついに、チュチュの言葉は幽霊騎士に届き、騎士は剣を捨て、消えることができた。

チュチュは満たされぬ欲求にあえぐ人々の心を癒す。

癒すだけ。

戦って打ち倒したりはしない。

暴力の前では、言葉は無力。

けれど、果たして、そうであるのか。

――ペンは剣よりも強し。

このテーマが第二部の中心に据えられており、

ここに、ふぁきあが剣を捨てることの意味が込められているように思える。

そして、ペンの力により物語の支配を打ち破るという展開を裏付けるものとなっている。

第十九話。

前回に王子の心のかけら(誇り)を取り戻したことで、飛び散った王子の心のかけらはすべて戻ったと明かされる。

そして、大鴉を封じている王子の心のかけらはまだ残っており、それを王子に戻すことで、大鴉は復活を果たすことになる。

第二十話。

――あの子の書いた物語はね、時々、本当になることがあったの――。

ここで、“物語を現実にする力”が話題に上がる。

ふぁきあの持つ、ドロッセルマイヤー直系の子孫たる、“物語を現実にする力”が明らかにされる。

ここから最終話までの4回分が、“ほんとうの物語”シリーズとでも呼ぶべき展開となる。

このタイミングで物語の前提を覆すような重要事実が明らかにされたことには、唐突の印象が強かった。

おそらく、2クールの編成上の理由から、そのような構成になったのかもしれない。

ただし、ギリシャ悲劇においても、「重要事実の認知」すなわち、「出生の秘密の暴露」は、重要な物語の転換点として多用されている。

アリストテレス「詩論」に述べられるように、「オイディプス王」などは、その典型である。

その意味において、第二十話、そして、何より第二十三話で重要事実によるどんでん返しを起こし、その推進力でクライマックスへと走らせたことは、理に適っているとも言えるだろう。

姉のような存在のレイツェルを苦しみから救うため、

幼少期のトラウマを乗り越え、ペンを執る、ふぁきあ。

それは、最終章の開幕、“物語への反逆”の始まりだった。

第二十一話。

――紡ぐ者たち――。

このエピソードが、『Forest』との最大の共通点である。

それについては詳しく後述したい。

「最近のあひるさんは以前にも増して集中力を欠いています。意欲を失っているようにも思えます。

自分には何もできない。そう決めてしまって、前に進もうとしていないのではありませんか」

猫先生は良識的な大人の代表として描かれており、

その言葉は、物語の要所において、的確なアドバイスとして機能している。

猫先生の存在は、特筆すべき要素であると思われる。

さらに豹変した王子。

それは、暴虐の王子。

プリンセスたる、るぅにも手を上げ、手酷く扱う。

「王子はいつか、私だけの王子に……」

「愛せよ! 僕を愛せよ! 命を投げ打って! みんな僕を愛するんだ!」

ここに至り、るぅは自分がした行為をはっきりと後悔するようになる。

すなわち、王子の愛を力ずくで奪ったことがもたらした最悪の結果を。

靴下を脱いだ状態で、ベッドに横たわり、涙を流す、るぅ。

その表情は悲哀に塗れて美しく、作品中最もセクシーなシーンの一つにもなっている。

樫の木の試練を乗り越え、絆で結ばれた、ふぁきあとあひる。

そして、暴力を振るった王子と後悔の涙に暮れる、るぅ。

第二十一話ラストでは、このコントラストが映える。

第二十二話。

動き出した図書の者。

グロテスクな雰囲気が漂い始める。

そして、メタフィクションの様相を呈し始める。

ついに、この町の真実が明らかになる。

金冠町には出口はない。

閉じられた世界なのだ。

――この町は物語に支配されている――。

「俺が戦うべき相手は大鴉ではなく、ドロッセルマイヤーの物語そのものだということか」

「ドロッセルマイヤー。みゅうとやすべての者たちの運命を弄ぶ男」

猫先生の的確なアドバイスが入る。

「自分の気持ちをごまかしてはいませんか。自分に一番大切なものは何なのかを」(猫先生)

「あたし、みゅうとのために女の子になって。みゅうとのためにプリンセスチュチュになって。それなのに、いつの間にか、何もできないって、諦めてる。逃げてる。」

あひるは常に前向きで元気な女の子のような印象が強い。

しかし、人並みに落ち込んだり、悩んだりすることも多い。

全編を通して、悩んでいるシーンは多いと言えるだろう。

――あひるは、最初から最終話の希望に満ちた決意を、持っていたわけではない。

悩み、落ち込み、苦しみ、その度に、猫先生やふぁきあたちの助けによって立ち直り、最後のあの決意へと辿り着いたのだ。

あひるの出した答えは、もう一度、みゅうとの心のかけらを探すこと。

別人のように変わり果ててしまったみゅうとだけれど、

「王子様を助けたい」その最初の願いを、もう一度、果たそうと奔走する。

それが、彼女の答えだった。

悲哀に暮れる、るぅは、あおとあと出会う。

――どれほど愛を囁いても、愛されないプリンセス――。

それが、るぅだった。

しかし、あおとあは、命を捨てても彼女を愛すると言った。

それは、るぅ――プリンセスクレールが初めて捕らえた獲物だった。

「僕はもう、君を愛さずにはいられない」

しかし――るぅは、心臓を取り出すことを躊躇った。

この回の最後に、ドロッセルマイヤーがポロッと手を落としそうになる描写がある。

つまり、“ドロッセルマイヤーは機械である”ということである。

これは重要な意味を持つ。

機械の書く物語に支配された物語。

それは、非人間的なシステマチックな物語であると言い換えることもできるかもしれない。

――物語には記号論がある。

どのような舞台で、どのようなキャラクターがいて、どのような筋書きがあれば、観客を喜ばせることができるのか。

その方法論は、アリストテレス『詩学』における悲劇論の古代ギリシャ時代から存在している。

その合理的でシステマチックな創作術は、数多くの名作たちを世に生み出してきた。

しかし、それは、本当に、人間的なものであったのだろうか。

そこに人間性はあったのだろうか。

そのような問いかけを見出すこともできるだろう。

第二十三話。

最高のメタフィクション。

最終話と並び、屈指の名エピソードである。

ついに、ドロッセルマイヤーのいる“時間の狭間”の世界に閉じ込められてしまった、プリンセスチュチュ。

そこでは、彼女はただの操り人形でしかない。

すべては物語の創造主たるドロッセルマイヤーの意のままに。

「私、言われるままに踊らされている。ただの操り人形。こんなのいや。もっと、もっと自由に踊りたい」

「そいつは間違った考えだね。操り人形は糸に操られている時が一番、自由なんだからね」

「みんな苦しんでいるだろう。こうでなくっちゃいけない」

「お前はもう、あの時、王子のことだけを願ったあひるとは違うんだよ。王子を愛し、王子と結ばれたいと思っているはずだよ。違うかね」

「王子を自分だけのものにしたいと考えるのが自然なことさ。何も恥じることはない」

ここで、ドロッセルマイヤーの物語の方針が明らかになる。

王子を愛し、奪い合い、みんなが苦しみ、救いようのない結末を迎える。

誰一人救われない物語。

救いようのない残酷な悲劇――それが、ドロッセルマイヤーの望みだった。

その運命を受け入れるまで、チュチュは元の世界へ帰してもらえない。 それを救ったのは、ふぁきあの持つ“物語を現実にする力”だった。

「私の気持ちは、私のもの。誰の気持ちだって、そう。大切な気持ち。操り人形なんかじゃない」

「みゅうとを守りたい」

「守ってみせる」

「「私たちが」「俺たちが」」

「これは、俺の言葉じゃない。これは、あいつの思いだ。あいつのみゅうとへの思いが、俺の手を通じて、溢れ出してくる。

その時、剣を捨てた騎士は、その名を呼んだ。闇から導くために。あひる――!」

「ふぁきあ――!」

感動的な名シーン。

ここでは、“朗読”が与える効果が非常によく機能し、感動を誘っている。

最終話のクライマックスでも使用されているが、この“朗読”は他の作品には見られない、ユニークな表現方法と言えるだろう。

父と信じていた大鴉から心臓を差し出せと迫られ、逃げ出したプリンセスクレール。

自分の心臓を大鴉に差し出すと言い、クレールと結ばれることを拒否する王子。

絶望したクレールは、王子と心中しようとする。

「僕の心臓を抉ったら、その心臓にキスをして。お前の唇を僕の血で赤く染めておくれ」

非常にグロテスク。けれども、耽美で美しい。

そして、王子が鴉と化す直前の最悪のタイミングで、るぅの出生の秘密が明らかになる。

この重要事実の認知によるどんでん返しは、前述のように、ギリシャ悲劇において多用された、典型的な悲劇の理論に適っている。

るぅの出生の秘密の暴露と破滅は典型的な悲劇であり、

それは、ドロッセルマイヤーの意に沿うものであったことだろう。

第二十四話。

エデルとの再会は重要な意味を持つ。

ドロッセルマイヤーは嘘を吐いていた。

王子の最後の心のかけらは町の五つの門ではなく、あひるのペンダントの中にあった。

それは、最後に明かされるべき、とっておきの秘密だった。

グロテスクな鴉と化した王子。

「私の愛は、あなたをこんな姿にしただけ。私にはあなたを愛する資格はない」

「愛すれば愛するほど、傷付けてしまう。すべての人を愛するあなたの心を私の手で滅茶苦茶にしてしまった。何もかも私のせい。あなたの愛を私一人のものにしたいばかりに。ごめんなさい」

ここに至り、後悔と悲哀だけに満たされる、るぅ。

鴉と化した王子とパ・ド・ドゥを踊る。

その切なさに満ちた踊りとその涙は、限りなく美しい。

王子の心の中に入った鴉の血。

王子にかけられた鴉の呪い。

「鴉の血なんかいらない! るぅでいた時が、一番、幸せだった!」

鴉の血の命じるままに、大鴉にその心臓を捧げようと飛び立つ王子。

「お願い、行かないで! 愛してるのよ、ずっと! 子供の頃から! ずっと好きなの!」

命を捧げても良いと思えるほど王子を愛した、るぅの告白によって、王子は呪いから解き放たれた。

それは紛れもなく真実の愛。

プリンセスチュチュではなく、るぅが、王子の愛を射止めた瞬間だった。

第二十五話。

復活した大鴉。王子はプリンセスチュチュを真正面にして言う。

「その愛は頼りなく、常に愛を失うことに怯え、愛すれば愛するほど苦しいというのに、誰にも助けを求めることもできなかった。けれど、決して愛することをやめようとせず、真の愛の言葉で、僕を導いてくれた。今度は僕が守る番。そして、できれば、るぅをプリンセスに迎えたい」

チュチュの愛が叶わなかった瞬間だった。

涙を流し、王子の言葉に頷くチュチュ。

しかし、王子の最後の心のかけらの入ったペンダントを外そうとするも、外れない。

町中に鴉の血が降り注がれ、すべての人々が鴉へと変貌を遂げる。

グロテスクな光景が広がる。

止まった時の中で、ついに、ドロッセルマイヤーが実力行使に出る。

「お前は書くことに責任を持とうとしているだろう。だから書けないのさ。物語ってのは、もっと自由に、無責任に、自分の気持ちに素直に書けばいいのさ」

「俺は、お前のように、面白半分に人の運命を弄ぶことはしたくない」

絶望という名の湖。

悲しくも美しいあひるの物語を、ドロッセルマイヤーはふぁきあに書かせようとした。

「そして、ペンダントを外すには、命を投げ打つしかないのさ。あひるは、絶望の湖に沈んでいく。一歩、一歩」

ドロッセルマイヤーの干渉を遮るため、ふぁきあはその右手をナイフで突き刺した。

あひるの元へと走る、ふぁきあ。

絶望の湖の底へと沈む、あひる。

ふぁきあとあひるのパ・ド・ドゥ。

「外れないの。あたしのせいで。あたしが物語が終わらなければいいって思ってるから」

「みんな怖いんだ。本当の自分に戻ってしまうのが。物語の中で役割を与えられることに慣れてしまっているんだ」

「でも、それが俺の本当の姿だとしても、俺は物語を終わらせたい。与えられた役割じゃなくて、俺は俺の気持ちでお前やみゅうとを守りたい」

「その時、あたしはただの鳥に戻るんだね。もうみんなとバレエの勉強もすることもなく」

「いいじゃないか。それが本当のお前なんだ。その時が来ても、俺がずっとそばにいてやるさ」

「俺たちは、本当の俺たちに戻ろう」

「自分たちのためにも、この物語を終わらせよう」

「うん」

ふぁきあの告白。

二人が結ばれた瞬間だった。

そして、あひるは物語の終焉を心から受け入れ、ペンダントが外れた。

「ふぁきあ、あたしのことももう一度、書いてくれない?」

朗読が始まる。

――プリンセスチュチュは、王子に最後の心のかけらを返すため走った。それは、王子のためだけではなく、すべての人のため。そう思うと、もう何の迷いもなかった――。

――最後の心のかけらは、羽ばたく翼の形に見えた。物語の中で居心地の良い時を過ごしていた者たちが、巣立つための翼――。

第二十六話。フィナーレ。

「幸せな結末を夢見ながら、永遠の絶望の底に沈むがいい。最高の悲劇を」

絶望的な状況下、王子は再びその心臓を砕こうとする。

それは悲劇の再演。

その時、小さなか弱いあひるがその翼を広げた。

「あたし、ただのあひるだけど、トーシューズも履けないけど。みゅうとや、るぅちゃんや、みんなのために、踊れるような気がする。ふぁきあ、力を貸して」

「本当のあたしはただのあひる。だけど、踊ることだってできるよ。踊りで思いを伝えることも、できるはず。何もしないうちに、何もできないって決めたりしない。あたしの物語は、あたしが作るんだから。

みんな、自分の物語の中の、本当の自分に戻ろう。誰かに決められたんじゃない。自分の気持ちを大切にしよう」

――確かに、その踊りには、プリンセスチュチュのような美しさはなかった。しかし、見る者の心に暖かな光を与えるような、力強い思いに溢れていた――。

――あひるは、立ち上がった。どんなに傷付けられようと、あひるは踊ることをやめようとはしなかった。それが、今の自分にただ一つ、できることだから――。

「絶望にとらわれないで。このお話をハッピーエンドにしよう。諦めないで。怖がらないで」

――その小さな体は、ただ立っていることさえできないほどに傷付いていた。けれど、王子を、すべての者を幸せな結末に導くために、どんなに苦しくても、希望を失わずに踊り続けた。

その力は、あひるの体の底から尽きることなく溢れてきた。その力は、鴉の血で凍った人々の心を次々と暖めていく。その力は、希望――。

そして、町は元通りになった。

猫先生は猫の姿に戻り、あひるはアヒルの姿に戻った。

――そして、一人の男がお話を書き始めました。

希望に溢れたそのお話は、まだまだ始まったばかりです――。

【物語への反逆】

――このお話はどうなるんだい。続きを聞かせておくれ。

「おやまぁ、王子様が死ぬよ」

「王子?」

「主人公が死んでしまうよ」

「死ぬ?」

「このお話はどうなるんだい。続きを聞かせておくれ」

「誰が助けるんだい」

「誰?」

「誰なんだろうね」

「あたしが」

「お前がお話を聞かせてくれるというんだね。よろしい、よろしい」

「そうだ、あたしは王子様を助ける」

「思い出したかね。お前は誰だい」

「あたしはプリンセスチュチュ!」

――ねぇ、お話を聞かせて。私が出てくるお話にしてね。

「おぼえてる? 彼のことを」

「思い出した」

「これは楽しいお話?」

「たぶん保証はできないね」

「お前には意思があるだろう?」

「そう思うの? ほんとうに?」

「思い出したかい? きみは言った。あのとき、たしかに」

「そうだね。できの悪い話だ。じゃあ、こんなのはどうかな?」

「もういい。もう聞きたくない。思い出した」

「そうだろうね。どうしたもんかな……」

「そうだわ。私、おぼえてる」

「聞かせてくれる?」

「やってみる」

物語の登場人物が物語の作者と語り合っている。

つまり、作者が登場人物にもなっている。

このメタフィクション的な構造は、『プリンセスチュチュ』と『Forest』に共通の要素であり、

“物語への反逆”という大きなテーマを描く上で不可欠なものと言える。

――腕を切り落とされたとき、男は自らの血で、一つの物語を書いていました。それは、死んでも物語を紡ぎ続ける、男自身の物語でした――

『Forest』において、ドロッセルマイヤーすなわち、物語の作者は誰であるかが重要な問題となる。

「この夢を生み出しているのが俺なのか、アマモリか、あるいは他の誰かか、そいつはイマイチ明確じゃないが――「誰かのイメージ」か、でなければ、「公約数的なイメージ」かによって、森の形象は制約を受けている」(「傘びらき丸航海記」灰流)

冒頭から語りかけてくる存在はアリス=伽子で間違いはないだろう。

では、相手は誰か。

灰流か、星空めてお氏か。

「おぼえているか」(「ザ・ゲーム」)

「いじわる。先生なんかだいっきらい」(「ザ・ゲーム」)

このやり取りを見るに、冒頭から語り合っているのは、灰流と伽子であると推測できる。

つまり、『Forest』の作者は灰流と伽子ということになる。

「なっ、なんだ、おまえ!? なんでおまえが、このレベルに――」

「この森の「意思」が、あたしを見てる――と、仮定するなら、ですよ? やぁ~っぱ、ね? そーゆー場面がね?」

「この森の「意思」に言ってんの! 満足いくまで何度も何度もねちっこく繰り返してる「誰か」にね!」(「ザ・ゲーム」九月ルート)

このやり取りを見るに、物語の語り手は灰流であり、それを聞いている存在、すなわち、“森の意思”はプレイヤーであることが推測できる。

「伝えるときには、伝えるヒトの意思が必ず入ってしまうからね。それなら、受け取る側の意思だって、もっとたくさん入ってもいいはずだとトルンガは考えた」

「受け取る側の、意思……? 物語を、聞く側、ってこと?」

「そうだ。語る者と聞く者。創る者と受け取る者」

「変わらない物語は、死んだ物語さ。語り継がれるうちには変わっていく。そっちのほうが、自然なんだ」(「はじまりの物語VI」)

語り手である灰流と聞き手であるプレイヤーとの共同作業によって、『Forest』という物語は紡がれているということになるだろう。

そして、物語を悲劇へと誘導しようとした聞き手たるプレイヤー、すなわち、“森の意思”を、最後に、語り手たる灰流が克服した。

これは非常にメタフィクション的な視点である。

「リドルには、予定の「結末」はない。ただ「非凡」か「平凡」かの違いだけ。あたしらがジタバタやらかして生まれた「物語」が、つまんなかったら? たぶん、森は、やり直すんだろうな。幾度も幾度もやり直して、より完璧に近い、でなければ非凡な、見たことも聞いたこともない物語を探す。そして、たぶん――あたしら、そんな「非凡」な物語の中にいるみたいなんだよね?」(「傘びらき丸航海記」九月)

この台詞は、マルチエンディングの選択式ノベルゲームそのものに対する考察と言えるだろう。

プレイヤーは選択肢を選び、バッドエンドと個別エンドを繰り返しながら、理想のトゥルーエンドを探る。

そして、試行錯誤の果てにトゥルーエンドを見付け、満足する。

“森”は、灰流と雨森の二人の語らいから生まれた。

しかし、灰流と伽子により大きく改変された。

それは、雨森が死んで未完のままとなってしまった物語を、もう一度、動かし、完全な結末を迎えさせるためであったと推測される。

つまり、『Forest』は、灰流と雨森が作り、そして、悲惨な事件により未完となってしまった物語を、

灰流と伽子が上書きをし、ハッピーエンドに終わらせた物語であったということになる。

『プリンセスチュチュ』の構図に当てはめるならば、

“森の意思”すなわち、プレイヤーがドロッセルマイヤーであり、

灰流がふぁきあということになるだろう。

では、プリンセスチュチュの役目は、誰であったのか。

王子への愛を告げた瞬間に光の粒となって消えてしまう存在。

「たからもの」でのタワーの上の伽子が連想される。

ふぁきあは、あひるを愛したことにより、物語を書くことができた。

この時、物語を書く原動力となる相手が、もう一人いたならば。

事態はより複雑なものとなっていたことだろう。

灰流にとっての、雨森と伽子がそうであると言えるのではないだろうか。

「これは、俺の言葉じゃない。これは、あいつの思いだ。あいつのみゅうとへの思いが、俺の手を通じて、溢れ出してくる」(プリンセスチュチュ「第二十四話」ふぁきあ)

ふぁきあは物語を現実にする超能力を有していたが、それは、相手の思いを反映するものであった。

つまり、思いを汲み取るべき相手が必要であった。

『Forest』においては、灰流にとっての、雨森と伽子がそうであった。

このように考えると、『Forest』におけるふぁきあは灰流であったと言うことができる。

では、『Forest』におけるドロッセルマイヤーは誰であったか。

誰一人として救われない、救いようのない悲劇を望み、人々の運命を弄んでいたのは、誰か。

「俺たちは追いやられていたんだ!」(「終末の国のアリス」灰流)

それは、「ザ・ゲーム」九月ルートで語られるように、“森の意思”たるプレイヤーであったのだろう。

――夢を見続ける人と夢から覚めた人は、どちらが幸せ?

『プリンセスチュチュ』第六話では、巡業バレエダンサー・パウラモニの苦悩が描かれる。

夢を追い求めていた彼女が、夢に挫折し、それでも、新しい夢を求めて立ち上がる話。

ここでは、夢から覚めることと自身の存在意義(アイデンティティー)の喪失が結び付けられ、

存在意義を喪失したとしても、新しいアイデンティティーを獲得することで、“覚めない夢”は存在することが描かれている。

これは、『Forest』における“夢から覚める”ことの意味にも通じていると思われる。

――夢から覚め、現実に還る。

これは、『プリンセスチュチュ』と『Forest』に共通するテーマである。

「この世界は夢でできてる。あたしたちの夢で。クマさんの真っ黒くて大きな体は、リアルのクマさんの夢が作り出している」

「これは夢。あたしの夢。だったら、あたしが最強のはずだ!」(「傘びらき丸航海記」雨森)

リドルは、現実の世界と夢の世界との勝負であると仮定することができるだろう。

リアルの世界の代表が灰流たち5人であり、物語の世界の代表がアリスたち。

勝った方が真実になる。

「じゃ、刈谷真季は、ダイナにあげる。あのヒトはもう森のもの。私たちの自由にできるから」

「5人のうちの、ふたりをとった。それで、勝負は決まったの。森は、すべてを呑み込んだ――これで、あなたの運命は決まったわ」(「傘びらき丸航海記」アリス)

リドルが終わることは、夢から覚め、現実に還ることを意味する。

リドルに負けることは、夢が現実を浸食し、“覚めない夢”を見続けることを意味することになるだろう。

ゆえに、アリスは「夢、覚めちゃうんだよ」と問いかけ、(「終末の国のアリス」)

夢から覚めたくない九月はベッドの上で灰流の首を絞め、夢から覚めることを阻止しようとした。(「九月」)

「でも、「役割」って、なんだろう? それは「与えられる」ものか? ならば「与える立場」はどこの誰だ? それとも自分で「見いだす」ものか? ならば私は、どんな私であろうとし、そのためにどう「演じて」いるのか?」

「私たちを選んだ誰かは、私たちに、ある「役割」を期待して、このガーデンへと誘い込んだ――」(「ザ・ゲーム」刈谷)

――与えられた物語、運命を否定し、自分自身の物語を作る。

それが、『プリンセスチュチュ』の大きなテーマであった。

それは同時に、『Forest』のテーマでもある。

物語は終わり、町は夢から覚める。

その時、あひるは、ただのアヒルに戻ってしまう。

それはあひるとふぁきあにとっては悲劇と呼べるだろう。それでも、あひるはそれを選択した。

「物語が終わる!」(ふぁきあ)

「終わってしまう!」(ドロッセルマイヤー)

「夢、さめちゃうんだよ」(「終末の国のアリス」アリス)

――居心地の良い物語を終わらせ、夢から覚める。

ここでいう“夢”とは、何だったのか。

『プリンセスチュチュ』の物語を援用して解釈するなら、

“現実と物語が入り混ざり合った町”としての新宿、そこで紡がれる物語、ということになるだろう。

物語が終わってしまえば、あひるは、ただのアヒルに戻ってしまう。

夢から覚めてしまえば、灰流たちは現実の卑小な自分に戻ってしまう。

そして、伽子は、架空の存在である以上、消えていなくなってしまうだろう。

それでも、灰流は、夢から覚めることを選んだ。

『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルに影響を与えたという、ジョージ・マクドナルド『リリス』には、以下のような記述がある。

「私たちの生命は夢ではない。しかしそれはやがて、夢と一つになるだろう。」

「自分が夢を見ていたことを知りたければ、目覚めさえすればいい。

 自分の行く道がどこにも通じていないことを知りたいなら。

 そんな終わり方をするくらいなら、わたしはいつまでも彷徨の旅を続けていた方がいい。」

――夢とは、何か。

夢、それは、眠っている間に体験する体験。

夢、それは、人生における大きな目標。

“夢”のダブルミーニング。

『Forest』と『プリンセスチュチュ』では、その二つの意味を、おそらく意図的に交えて表現しているように思える。

ゆえに、童話の世界は空想上の“夢”であると同時に、

挫折を味わい、人生の“夢”を失った者たちにとっての、人生における大きな目標という意味を持つものであった。

――夢とは、その人なりの理想の「いま」のことである。

「それは、黛さんの夢だった。おそらくは世界樹の中で無数にかいま見た過去と未来の時間から、選び取った――

 そして果実として結晶させた、彼女なりの理想の「いま」が、夢のエネルギーとしてあふれ出し、ラピュタを飛ばしている」(「傘びらき丸航海記」刈谷)

――そして、叶わない夢は“呪い”である。

「トルンガは、そう言ったのよ。手萎え脚萎えのペッコリアに聞かせたの。希望を、夢を、呪いを」

「呪いなの?」

「だって、かなわない夢だもの」

「かなうとしたら? 世界のどこかに、あるかも知れない」(「はじまりの物語XI」)

伽子にかけられた、不死の呪い。

それは、“永遠の命”という“かなわない夢”を表現していると言える。

しかし、それがもし、かなうとしたら?

世界のどこかに、“永遠の命”が存在するとしたら?

――それがもし、存在するとすれば、それは、“天国”にしかないように思える。

「ぼく、天国へ行きたいだけさ」(「ザ・ゲーム」ダイナ)

「そこは地獄なの?」(「終末の国のアリス」伽子)

「もっと素晴らしいところよ」(「終末の国のアリス」雨森)

――天国。

「終末の国のアリス」ラストシーン。

架空の存在であるはずの伽子が新しい生を受け、

死んだはずの雨森の胸に抱かれ、

老衰で死に瀕していたはずの灰流とともに、“世界の外”へと旅立つ。

そこは――天国なのだろう。

雨森が望んだ“永遠”と、

伽子が望んだ“永遠の命”が存在する世界。

――挫折を味わい、人生の目標を失い、それでも、“夢”を取り戻す。

“夢”を捨てるのではなく、“夢”を取り戻す物語なのだ。

空想上の“夢”の世界から脱却し、現実の世界で“夢”を取り戻す。

そうであれば、ラストシーンを「夢ばかり見ていないで、現実を見ろ」というメッセージであるとする解釈に対し私が持ち続けている違和感を拭う答えにもなるだろう。

夢を捨てて現実に戻るのではなく、現実で夢を取り戻すのだ。

九月たちはトルンガにより作られたキャラクターである。

「なっ、なんだ、おまえ!? なんでおまえが、このレベルに――」

「この森の「意思」が、あたしを見てる――と、仮定するなら、ですよ? やぁ~っぱ、ね? そーゆー場面がね?」

「さあ、これで正体モロバレ! 狙いどおりのストーリーに誘導しようと無理やり展開ねじ曲げてるしっ!」

「この森の「意思」に言ってんの! 満足いくまで何度も何度もねちっこく繰り返してる「誰か」にね!」(「ザ・ゲーム」九月ルート)

冒頭から続く灰流と伽子の掛け合いとモノローグ。それを、「このレベル」と言った。

そして、満足いくまでリセットを繰り返すプレイヤーが、“森の意思”であるという。

プレイヤー=“森の意思”。

“森の意思”はプレイヤーであり、定められた筋書きへとキャラクターを動かしていく“森の意思”もまた、プレイヤーということになる。

そして、“世界の外”とは、プレイヤーの望んだ世界からの逸脱に他ならない。

「先生? お話を聞かせて。おとなになれるお話がいいわ」(「傘びらき丸航海記」アリス)

「あたし、いや。あたし、このままがいい。悲しいことなんか起こらずに――みんなみんな幸せで。いつまでも楽しく暮らしました。そんなお話がいいの」

「さあ、先生、お話を聞かせて!」(「傘びらき丸航海記」雨森)

この物語は、灰流と雨森のお話を土台とし、灰流と伽子が紡いだお話ではないだろうか。

この構造の核心に関わる描写が、「ザ・ゲーム」に存在する。

「わかるの? あたしの考えてることが?」(「ザ・ゲーム」九月)

「そりゃあもちろんわかります。あたしがそのように織ったんだから」(「ザ・ゲーム」トルンガ)

「ザ・ゲーム」の九月ルートに明らかなように、ザ・ゲームのタピストリを織ったのは、トルンガ。

そして、この物語は、トルンガが紡いだお話。物語を現実に変える魔法の杼を持って。

九月、黛、刈谷たちキャラクターはトルンガが作った。

伽子もトルンガが作ったキャラクターである可能性が高い。

そして、トルンガは雨森と灰流が作ったキャラクターである。

つまり、雨森と灰流が作ったキャラクターであるトルンガが、

九月、黛、刈谷、伽子たちを作り出し、

“森の意思”たるプレイヤーの意に沿うように、物語を織り上げた。

それが、この物語であると言える。

「忘れているんじゃない! 遺しているんだ! 永遠の命を得るために! 完全な姿へ近づけるために! 物語を! 世界を!」(「はじまりの物語XIII」)

ただし、エピローグだけは、その範疇から外れる。

「終末の国のアリス」のラストで、灰流たちは“世界の外”へと脱出した。

それは、“森の意思”たるプレイヤーの意に沿う物語からの脱却を意味する。

“世界の外”の対極に位置するのが、“内側の世界”である。

「あたしたちの「外」に、世界があるなら――あたしの「内」にも、世界は、ありますか?」

「あたしたちは森を生んだわ。ううん、見つけただけかもね。そして、あたしは「永遠」に触れた――でも先生、あなたは拒んだ。永遠を否定した。無限という地獄――そう先生は言った。脱出したい。この世界を超えるんだ。あたし、その気になっちゃった。あたしたち、「破った」んだと思うの。世界の裂け目は、でも脱出口にはならず、流れ込んできたの。「外」から「内」へ」(「たからもの」雨森)

「そうだ。しかし「卵」だ。「世界」を生む「きっかけ」だ」(「たからもの」灰流)

「ねえ、先生? そこは完全な世界? 悲しいことのない世界?」

「それは夢だ。悪い夢だ」

「なぜ言えるの? 知らないくせに! そうよ、試してみなくちゃ――」

「アマモリは、なぜ飛び降りた? 「卵」だったからさ! 砕け散って産み落とした、「世界」を! そうして飛び散った無数のかけらがある。「卵」のかけら、アマモリのかけらだ。そいつを拾い集めてるのさ、俺は。かけらに触れれば詩が降りてくる。ひらめくんだ、詩のきっかけが。書き留めるたび、かけらは消える。ひとつのかけらが消えるたび、どっかで何かがカチッとはまる。「完全」へと近づいていく」(「終末の国のアリス」灰流)

そして――雨森は、完全な世界への脱出を夢見て、タワーから飛び降りた。

――内側の世界。

それは、遠い日、「はじまりの物語」の頃、部屋に閉じこもりがちだった雨森が自分の中に創り上げた、彼女だけの世界。 たった一人の魔女だけが住む世界。

遠い日の灰流は、彼女をその世界から連れ出そうとして――痛ましい事件により、頓挫した。

彼女は、あの頃から、一歩も動けずにいた。

そして、タワーから飛び降りて、自分の中の世界へと飛び立った――。

この作品は、物語の構造上、内側の世界=物語の世界、世界の外側=物語の外の世界(作者がいる世界)、というメタフィクションの構図を持っていることは明確である。

そして、このメタフィクションの構図を、ダブルミーニング的に、部屋に閉じこもりがちな少女の内面性にも押し広げていると言えるのではないだろうか。

内側の世界=内面世界(閉じこもる部屋)、世界の外側=現実の世界(人と関わりあう社会)、という構図。

卑近な言葉で表すならば、“引きこもりからの脱却”的な構造を持っていると言えるのではないだろうか。

「トルンガも! ペッコリアも! お前の部屋に閉じ込められてる! 広い世界を旅してきたのに! 縛ってるのは、おまえだ! たったひとつの世界に縛りつけてるのは! 狭い狭い世界に縛ってるのは!」

「だって、これはあたしの物語よ!」

「おまえだけがヒロインのつもりか!」(「はじまりの物語XIII」)

「あたしたちは森を生んだわ。ううん、見つけただけかもね。そして、あたしは「永遠」に触れた――でも先生、あなたは拒んだ。永遠を否定した」(「たからもの」雨森)

森で、雨森が触れ、灰流が拒んだ、「永遠」とは、何だったのか。

それは、「いつまでも幸せに暮らしました」、すなわち、“永遠の幸福”のことではないだろうか。

永遠に続く幸せ。すなわち、ハッピーエンド。

彼女は、おそらく、灰流と結ばれることを望んだのではないだろうか。

灰流と結ばれ、永遠に続く幸せを手に入れることを夢見た。

しかし、それは叶わなかった。

叶わない夢は“呪い”として、彼女の心を蝕み続けた。

「この世が無限で! 永遠は実在して! しかも、そいつに届くんなら、俺は、やり残したことができるさ!」

「もうすぐ届く! この世界の「外」へ!」(「終末の国のアリス」灰流)

自分の部屋に閉じこもりがちだった雨森を、外の世界へと連れ出すこと。

そして、叶わない夢という“呪い”から解き放ってあげること。

それが、灰流がやり残したことだったのではないだろうか。

「ねえ、空を見たらさ。まだ見える? パドゥア、飛んでる?」(「はじまりの物語XIII」)

この時、雨森は、初めて、外の世界すなわち現実の世界に興味を示した。

それは、物語の世界を捨てたからではない。

パドゥアが空を飛んでいるからだ。

――現実の世界が、物語の世界と、地続きになったからだ。

私には、そう思える。

エピローグは現実に帰ってきたという解釈がある。

しかし、エピローグの背景の中に、なおも、“森”が描かれている。

“森”は生き続けている。

これは、取りも直さず、現実の中にも“森”は存在することを示唆している。

バレエ『白鳥の湖』は、19世紀に初演された時は、その筋書きは王子と姫がともに湖に身を投げる悲劇で終わるものであったという。

その後、20世紀に入り、王子と姫が呪いが解けて結ばれるというハッピーエンドに書き換えられたものが広まったという。

「変わらない物語は、死んだ物語さ。語り継がれるうちには変わっていく。そっちのほうが、自然なんだ」(「はじまりの物語VI」)

作者が作り上げた当初の物語の筋書きは、後世の人々の手により改変され、その性質を大きく変えていく。

――悲劇をハッピーエンドへと改変する。

これは、『プリンセスチュチュ』のテーマにもなっている。

もしかしたら、『白鳥の湖』の物語の変遷を下敷きとしているのかもしれない。

もちろん、ハッピーエンドこそが常に絶対的に正しい終わり方であるということはない。

ギリシャ悲劇におけるカタルシスを引き合いに出すまでもなく、悲劇であるからこそ与えられる感動もあるように思われる。

『プリンセスチュチュ』や『Forest』は、ともに“悲劇から脱出する物語”であるから、悲劇を否定する印象を与えられることになるが、悲劇そのものは全否定されるべきものではないということに注意が払われるべきであるだろう。

――紡ぎ手のいなくなった物語は、その結末を求めて、さまよっています――。

『プリンセスチュチュ』第十八話。図書の者たちにより結末を破られてしまい、永遠に終わることのない物語の中で彷徨うこととなった、幽霊騎士の物語。

それは、タワーから飛び降りた雨森の姿を思い起こさせる。

遠い日の事件によって、又、雨森の死によって、彼女と灰流の「はじまりの物語」は完結することができなくなった。

紡ぎ手のいなくなった物語。

物語は永遠に終わることなく、結末を求めて、彷徨い続けている。

それが、おそらく、“森”の正体なのだろう。

「このお話は「おしまい」のないお話よ。だって「いま」語られているんだもの。パドゥアが「聞いた」物語じゃないのよ。パドゥアから「生まれた」の。これは「はじまりの物語」なんだわ」

「パドゥアは芽吹きはしない。パドゥアは石の塊よ。化石のような、お墓のような。でも、パドゥアの周りには、物語が生まれるんだわ。新しい、いくつもの物語が。そう、たとえば――トルンガのように――」(「はじまりの物語XIII」)

――ねぇ、お話を聞かせて。私が出てくるお話にしてね――。

「お話は続いている。お話は生きている」(プリンセスチュチュ「第九話」エデル)

「この広い広い「世界」には、たくさんの樹があります。ひとつひとつの樹が、小さな世界です」

「樹が伸びていくと、世界も広がる。もちろん、枯れることもある」

「滅ぶでしょうね。ひとつの世界は。でも、実を結ぶの。種を落とすの。新しい世界の種を」

「いまの「世界」には、たったひとつ、パドゥアだけがあるんだもんね」

「世界樹が枯れるとき……。世界が滅びるとき……。王様は、樹のてっぺんに立っていました。生い茂る世界樹は、見渡す限り続いて、それぞれに満ち足りているようで――でも、王様の世界樹だけは、いまにも枯れそうでした。悲しくなった王様は、世界樹のてっぺんから身を投げました。そうして、王様は、流れ着いたのです。おしまいの村へ」(「はじまりの物語外伝」)

「この世界は深い森だ。数多くの世界樹が生い茂る森。ひとつひとつの樹が、独立した世界」(「はじまりの物語IX」)

「パドゥアは物語でできている。無数の、無限の、物語の塊だ」(「はじまりの物語XIII」)

“森”は、灰流と雨森の二人の語らいから生まれたとされる。

「あのかたはオリジナル! この森の造り主、言ノ葉の姫君!」(「ザ・ゲーム」ソロモン)

「だから、なんだというのですか! もはや森は、いにしえとは姿を変えて、造り主のつくりたもうたままではない!」(「ザ・ゲーム」アリス)

「伝説にいわく――すべての「物語」のはじまりは、おさな子と賢者の語らいより発した――」(「ザ・ゲーム」ソロモン)

「そんなルール、誰が決めたの。あたしは知らない。はじまりの子、オリジナルのあたしが!」

「ねえ、なに企んでるの?あたしたちの世界をこんなに変えて――どういうつもり――灰流?」(「ザ・ゲーム」雨森)

ここでは、TRPGがモチーフとなっていることに留意する必要があるだろう。

ゲームマスターであるアリスに対し、ゲームの原作者である雨森がルールの逸脱を宣告している。

ゲームマスターとゲームの原作者、どちらが正しいのか、という描写となっている。

おそらく、TRPGにおける原作とローカルルールの相違が下敷きとなっていると思われる。

原作者が最初に定めた世界観とルールは、多数のゲームマスターと参加者たちによって改変され、ローカルルールとして派生版が生まれてゆく。

それは、前述の“生きた物語”の根拠にもなるだろう。

オリジナルの物語は、解釈され、改変され、当初の筋書きとは大きく変わっていく。

そのダイナミズムは、作者すらも止めることはできない。

“森”は雨森と灰流が作ったが、灰流と伽子により大きく改変された。

それは、雨森が死んで未完のままとなってしまった物語を、もう一度、動かし、完全な結末を迎えさせるためであったと推測される。

――“森”とは、何か。

『プリンセスチュチュ』第二十一話で、完成を研ぎ澄ませた、ふぁきあが、樫の木の声を聴き、“深淵”を覗き込むことになる。

劇中ではあまり深入りされなかったこのシーンを、『Forest』ではより深く掘り下げ、物語の根幹に据えていると言える。

「見えるものは見えず、聴こえるものは音を成さない。

見えないものを見、聴こえないものを聴くべし。

遥かかなたの真理の沼に、その身を沈めよ」

時計の音が聴こえ、それは鼓動であると分かり、大自然が広がって。

「すべては一つ。一つはすべて。すべての物語は一つに紡がれ。

始まりは終わり。終わりは始まり。

始まりは偶然、終末は必然。存在は偽り、真実は無」

大樹の前で裸のまま座る、ふぁきあ。

「あぁ、そうだ。無に還るんだ。そして、すべてのものと一つになる。

このまますべてのものを見守り、永遠の終末へ」

「すべてを受け入れるものに幸いを。すべてに抗うものに栄光を」

樫の木と同化した、ふぁきあは、あひるの声に導かれ、現実へと帰還を果たす。

この樫の木は、“世界樹”なのだろうか。

――声なき声を聴き、姿なき姿を見る。

この言葉には、一つ思い当たる。

それは、詩作、あるいは、創作だ。

我々が詩を書き、物語を紡ぐ時、我々は、声なき声を聴いている。

脳裏に、姿なき姿を思い浮かべている。

そうして、登場人物たちの行動を書き記し、物語は完成する。

「これは、俺の言葉じゃない。これは、あいつの思いだ。あいつのみゅうとへの思いが、俺の手を通じて、溢れ出してくる」(プリンセスチュチュ「第二十四話」ふぁきあ)

それは、純粋な創作行為だ。

ただし、その行為により、“真実”は生み出されると、ハイデガーは述べた。

――“真理の沼”。

『プリンセスチュチュ』では、そう呼ばれだ。

そこは、“森”と同一であったのだろうか。

「ロビンくんは、ひとりじゃない。森には、きっとロビンくんの魂がいるんだ。それがリアルの世界の男の子と引き合って、ロビンくんに「なる」んだ」(「傘びらき丸航海記」雨森)

「傘びらき丸航海記」では、クマのプーに殺されたロビンの元型が“森”に存在すると語られる。

これは、古代ギリシャ哲学におけるイデア論、すなわち、物事の真の実在すなわちイデアたちはこの世ではない場所に存在し、この現実世界はイデアの模倣に過ぎないという説に似ている。

では、“森”はイデアの世界であるのだろうか。

ハイデガー『芸術作品の根源』には、以下ような内容が書かれている。

芸術とは、作品の中で“真実”を創造し事実とすることである。

ゆえに芸術の本質は詩作である。

存在に名を付けることで、初めて存在を事象とする。

それは設計であり、保存することで、作品の内に“真実”を飛び立たせ、事実となる。

それは“真実”が語る言葉であり、語り得ないものを生み出すことである。

“真実”には、作品になろうとする性質がある。

「森は、俺たちに語ってほしいのかもな。誰も知らない、新たな物語を……」(「風に乗ってきた招き」灰流)

「生命など、たかが状態ではないか。世界は言葉だ。世界は思念(こころ)だ。ほかはみな些末な枝葉の茂りに過ぎない」

「生命とは、ただの状態の要素なり。世界とは、状態を語り尽くさんとして、なお語りえぬ、限界なきところなり。語りえぬ言葉で世界を語り……やがて、達するは……」(「ザ・ゲーム」アリス)

「やがて達するは、永遠なり」「あるいはまた、真理なり」(「ザ・ゲーム」黒の乗り手)

この説を採用するならば、

“森”は芸術作品の中で創造される“真実”であることになる。

もし、“真実”を“イデア”と言い換えることができるとすれば、両者は一点を除けば、似ていると言えるだろう。

すなわち、“真実”は、この世にはないどこかにあるのか、それとも、芸術作品の中に創造されるのか、ということである。

前者を採用すれば、芸術作品は“真実”の模倣に過ぎず、後者を採用するなら、芸術作品は“真実”そのものを内包していると言える。

“森”は、芸術作品に内包される“真実”であったのか。

ここで、改めて、プリンセスチュチュの冒頭に立ち返りたい。

――紡ぎ手のいなくなった物語は、その結末を求めて、さまよっています――。

彷徨っていたのは、“物語”。

語ってほしかったのは、“森”。

つまり、“森”とは、紡ぎ手のいなくなった“物語”ということになる。

それは誰の作る物語か。

タワーから身を投げて死んだ、雨森である。

雨森が死んだことで、物語は未完に終わった。

そして、“紡ぎ手のいなくなった物語は、結末を求めて、さまよっている”。

それが、“森”である。

ただし、その物語には共同執筆者がいた。

それが灰流。

“はじまりの物語”は、雨森と灰流の語らいから生まれた。

「伝説にいわく――すべての「物語」のはじまりは、おさな子と賢者の語らいより発した――」

「あのかたはオリジナル! この森の造り主、言ノ葉の姫君!」(「ザ・ゲーム」ソロモン)

「森は、あたしたちの物語「じゃない」の? それとも――「そうだった」けれど、「いまは違う」の? じゃあ、誰が「物語」を書いてるの? それとも……まさか……「物語」そのものが、「意思」を?」(「ザ・ゲーム」雨森)

意思を持った物語。

紡ぎ手のいなくなった物語。

結末を求めてさまよう物語。

そして、“真実”には、作品になろうとする性質がある。

芸術作品により“真実”は明らかにされ、現実のものとして、この世に生み出される。

すなわち、芸術作品はただの空想の模写ではなく、“真実”を事実とするものである。

「生まれ出でた喜びとその圧倒的な孤独に、伽子はうちふるえる」(「終末の国のアリス」)

「かわいそうな伽子。森の子。私の娘。来て――あなたはあたしと生きましょう」(「終末の国のアリス」雨森)

――作品として完結することで、現実に生み出されようとする“真実”。

それが、“森”であったのであろう。

「名前なんか重要じゃないんだ。むしろ、ない方がいい」

最初のリドルで、確かに、灰流はそう言った。

「はじまりの物語」で、魔女アマモリは名前探しの旅に出る。

しかし、その物語は、トルンガとペッコリアの物語に取って代わられ、

また、悲惨な事件の結果、中断を余儀なくされ、続きが紡がれることはなかった。

物語のクライマックス「終末の国のアリス」では、灰流が雨森に名前を告げ、

名前を取り戻した雨森は、元の姿を取り戻す場面が描かれる。

――名前を取り戻す。

上述のハイデガー『芸術作品の根源』の記述。

芸術の本質は詩作である。

存在に名を付けることで、初めて存在を事象とする。

それは設計であり、保存することで、作品の内に“真実”を飛び立たせ、事実となる。

それは“真実”が語る言葉であり、語り得ないものを生み出すことである。

存在に名前を付けることで、“真実”を実在する存在として生み出す。

死んだ(砕け散った)雨森は名前を与えられたことで、この世に実在する存在として戻ってきたと解釈することもできるだろう。

そして、想像妊娠で宿された想像上の存在である伽子は名前を与えられたことで、実在する存在として本当の生命を与えられたと解釈することもできる。

「私は名前をなくしてしまった。今の私は、誰でもないわ。でも……ねえ先生、先生なら知ってる? 私は誰なの? 名前があるの? 教えて、先生……」(「たからもの」伽子)

「……俺の知ってる名前は、ひとつだ。宮乃伽子」(「たからもの」灰流)

――王子の心臓は欠片となって飛び散って、街のあちらこちらに散らばってしまいました。その街はお話と本当が混ざり合い、不思議が不思議でない世界になってしまったのでした――

「お話は本当になるわ。本当とお話が混じり合うこの町では」(エデル「プリンセスチュチュ第四話」)

断章で語られる事件。タワーから飛び降りて死んだ(砕け散った)雨森。

「終末の国のアリス」で数十年間に渡り、詩を詠み続けた灰流は、ついに雨森を取り戻す。

そして、雨森が想像妊娠した存在であるはずの伽子は、“ほんとうの存在”になる。

この描写が作品のハイライトであると同時に様々な解釈ができる難解な場面と言える。

灰流が行った行為は、前述のハイデガーの芸術論を踏まえれば、こう解釈することができる。

芸術とは、作品の中で真実を創造し事実とすることである。

詩を作り、名を名付けることにより、それを“ほんとうの存在”すなわち、事実とする。

雨森という存在の真実を芸術作品の中で創造することにより、それを事実とした。

すなわち、現実世界には存在しない、“ほんとうの雨森という存在”を、詩によって“つかまえる”ことにより、真実を事実とした。

「さあ、ここへきて。わたしのなかへ。わたしを――うって。生んで」(「新宿漂流」アリス)

「……私、本物?」(「終末の国のアリス」死のアリス/伽子)

ここで、一つの問題が浮かび上がった。

すなわち、“ほんとうの存在”を手に入れたのは、雨森なのか、伽子なのか、ということである。

「終末の国のアリス」のラストで、名を名付けられたのは雨森である。

しかし、「わたし、ほんものよ」と言ったのは、伽子である。

また、雨森が想像妊娠した存在である伽子は“架空の存在”であり、彼女が“ほんとうの存在”を手に入れることになったとする方が、筋が通りやすい。

しかし、その直前、灰流が数十年間の彷徨の果てにつかまえたのは、“雨森のかけら”であった。

果たして、それがリドルの答えであったのか。

「たからもの」のリドルが、「終末の国のアリス」でも続いていたのだとするなら、“たからもの”は、灰流が詩によってつかまえた雨森の、また、伽子の“ほんとうの存在”であったのか。

誰より、伽子を“ほんとうの存在”にしたかったのは、灰流と雨森ではなかったか。

彼女は二人の愛により生まれた想像上の子供なのだから。

灰流が、死んだはずの雨森の“ほんとうの存在”をつかまえ、詩すなわち芸術作品の中で“真実を事実とする”ことで、“ほんとうの雨森”を蘇らせた。

それと同時に、雨森と灰流は“ほんとうの伽子”を産み落とした。

そのように解釈することもできる。

また、『プリンセスチュチュ』のあひるは、初めから、二段階に変身していることに特徴がある。

鳥のアヒルから、人間へ。人間から、プリンセスチュチュへ。

そして、その魔法の力の源であるペンダント――王子の最後の心のかけらを返せば、魔法は解け、彼女はただの鳥のアヒルに戻ってしまう。

同様に、『Forest』の黒いアリスも二段階に変身していると考えることができる。

すなわち、雨森が想像妊娠で宿した実在しない存在から、人間の伽子へ。人間から、黒いアリスへ。

夢から覚めることは、黒いアリスから人間の伽子へ戻ることを意味すると同時に、人間としての伽子が消えることも意味する。

「あの子の書いた物語はね、時々、本当になることがあったの」(プリンセスチュチュ「第二十話」レイツェル)

ドロッセルマイヤーと、ふぁきあは、“物語を現実にする力”を持つ超能力者であった。

その力により、“お話と本当が混ざり合った町”を作り出した。

では、灰流と雨森も、そうなのだろうか。

彼らは“物語を現実にする力”を持つ超能力者であり、

その超能力で、“お話と本当が混ざり合った新宿”を作り出したのだろうか。

お話と本当が混じり合った世界であったのならば、

新宿での出来事は夢であると同時に現実でもあり、

病弱な少女としての伽子とその家庭教師としての灰流は、夢であり、また、現実でもあったと言える。

「私はアリス、黒いアリス。森に名を承け、生を享けた者」(「ザ・ゲーム」アリス)

「私はアリス。永遠の少女。でも、そんなのもう飽きちゃった。不死は呪い。不変は呪い。ねえ先生、私、おとなになりたい」

「先生? お話を聞かせて。おとなになれるお話がいいわ」(「傘びらき丸航海記」アリス)

伽子は雨森が想像妊娠で孕んだ存在であることは、劇中の描写から、疑いようはない。

しかし、森と化した新宿が“物語と本当が入り混じった町”である以上、

家庭教師の灰流に恋する少女としての伽子は、夢であると同時に、現実でもあるということになる。

そうであれば、“伽子は存在しなかった”というのは一面に過ぎないことになるだろう。

「それとも……あれは夢だったの? 夢ってことにされちゃったの? 森の「意思」に添えなかったから?」(「たからもの」伽子)

“森の意思”たるプレイヤーの意に沿わない展開は、「夢だった」ということにされてしまう。

最初のリドルでの刈谷の死、雨森の破瓜、「新宿漂流」での伽子の受精。

あるいは、「ザ・ゲーム」で頻発される黒の乗り手による殺人。

あるいは、タワーから飛び降りた雨森の死、「終末の国のアリス」で語られる九月の死も。

それらは、すべて、「夢だった」ということになる。

完全な結末ではなかったがゆえに、プレイヤーの手によって「夢だった」ということにされたのだ。

プレイヤーが“選択肢をやり直す(物語を書き直す)”という行為によって。

そして、プレイヤーを満足させる結末を迎えるまで、物語は書き換えられ続ける。

心臓病を患う少女としての伽子は夢と現実の世界で実在し、

灰流の腕の中で息絶えた。

そして、雨森の腕の中で、新たな生を授かった。

それは、夢であると同時に、現実であったと言うことができる。

――灰流と雨森が結ばれ、親になる。

断章で語られる事件、想像妊娠。

ダイナは灰流との間に子供を作っており、灰流はまだ認知していないと語られる。(「ザ・ゲーム」)

また、雨森はママになった途端、凶暴性をむき出しにした。(「夏至の夜の改賊」)

この描写から、灰流は親となることから逃げていたと考えられ、また、雨森は親としての心構えが出来ていなかったとも考えられる。

「アマモリ、このままだったら、おまえはママになれないぞ。おまえはママごっこをやってるだけだ」(「夏至の夜の改賊」灰流)

「ママごっこ? 違うわ。あたしはママ。あたしは生んだ。何もかも。何もかも」(「夏至の夜の改賊」雨森)

――結婚は、夢の終わりを意味する。

『眠れる森の美女』のオーロラ姫が、王子の接吻により夢から覚め、王子と結婚したように。

「たったひとつの真実は「死」よ。それは私よ。この私だけが、真実!」(「終末の国のアリス」アリス)

「俺たちは「死」によってしか語り得ない「物語」を背負わされている。「外」のレベルに在る意思によって!」(「終末の国のアリス」灰流)

「みんなみんな幸せで。いつまでも楽しく暮らしました。そんなお話がいいの」(「傘開き丸航海記」雨森)

永遠に続く幸せなど、あるのだろうか。

それはないと断言できる根拠は、“死”である。

死はすべての者に等しく訪れる。

永遠に生き続けられる人間はいない。

結ばれた二人は、必ず、どちらかが先に死に、どちらかが取り残されることになる。

それを拒む唯一の方法は、心中しかない。しかし、それは幸せの崩壊であろう。

心臓病で死んだ伽子と、タワーから飛び降りて死んだ雨森。老いて死んだ灰流。

彼らは、死んで、地獄ではない場所――すなわち、天国へと旅立った。

そこは、雨森が夢見た“完全な世界”、“永遠の世界”だった。

終末の国のアリス。

数十年間、新宿を徘徊していた、老いた灰流は心臓発作で蹲り、死に瀕する。

彼の目の前に死のアリス、ロビンとクマ、若い姿の刈谷と黛、死んだはずの九月が現れる。

仰向けになり、声を放つ。

それは、雨森の最後のかけらだった――。

「城之崎灰流の顔は血の気を失っている。唇は青黒くなって乾いている。だが、彼の口調には熱がこもる」(「終末の国のアリス」)

この演出は、私が直感する限り、走馬灯にしか見えない。

灰流が主張するように、一年で終わるはずのリドルは数十年後も続いていて、雨森のかけらを全て集めることで、完全な結末、すなわち、新しい世界が生まれ、死んだはずの九月と雨森は生き返り、老いたはずの灰流や刈谷たちは若返った。

そして、“世界の外”へと脱出し、“理想的ないま”へと辿り着いた。

そのような筋書きは、物語としては筋が通っている。

しかし、上記の演出から受ける印象としては、あくまで、死の間際の走馬灯にしか見えないと感じられる。

――死を超える。

死は、誰であっても逃れられぬ運命そのものである。

重要なのは、雨森たちが生き返り、雨森が名前を取り戻し、伽子が本物の命を授かり、死の運命から解き放たれ、新しい世界へと旅立ってゆく――その感動的な情景であるのかもしれない。

――永遠の命とは、生きた物語のことである。

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