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私が芸術家を諦めるまでの話 1

私の将来の夢はずっと『芸術家』だった。

それを決めたのは、自分ではずっと「2歳のとき」だと信じていたけど、今自分の子供たちをみると、本当に2歳で将来の夢を決めていたとしたら結構ヤバイ幼児だなと思う。

幼稚園の将来の夢ではずっと「絵描き屋さん」だとお絵かきや発表で表明していた。

「私は大人になったら芸術家になっている」と信じて疑わなかった。

小学生の頃、とても賢い実弟に、リビングのテーブルの上の砂糖壺を前にして

「お姉ちゃん、わかってる?芸術家でやっていけるんなんて、この砂糖のなかの一粒なんやで。」

と謎に諭された記憶がある。

「わかっとるよ。その砂糖の中にその一粒があって、それが私じゃないとは限らへんやろ。」

と言い返して弟には大きなため息をつかれた。

高校に入ると、母が「美大に入るなら受験デッサンを習わんとあかんらしい。美大に入りたいなら、受験デッサンを教えてくれる場所を探して来なさい。」と言ってくれた。

タウンページで探した美大受験の教室(通称『画塾』)に電話して見学の申し込みを入れて、母に月謝などの説明をして通うことになった。

(この一連の流れを、なぜか母は「あんたが勝手に調べてきたからしゃーなしにカネを出した」と言っている。どちらの記憶が間違っているのかは、もうわからない。)

全国に芸術系の大学はあるが、私が目指していたのは東京の美大、芸大だった。

美大受験は関西と関東で大きく傾向が違うため、入りたい大学によって鍛錬を積む内容が大きく違う。

※関西の美大受験はテーブルの上にコップや布を置いた卓上デッサン等が中心で、関東は石膏像やモデルを使っての人体デッサンが中心だった。

高校2年生になるあたりで「ここの画塾じゃ東京の美大の対策はできないんじゃないか…」と考えるようになり、今度はタウンページでなくネットで検索して、東京芸大出身の講師がいるという別の画塾に変えることにした。

その画塾で石膏デッサンなどを教わっていたある日、画塾の夏期講習を丸ごと休んでいた後輩がめちゃくちゃレベルが上がっていた。

「東京の受験予備校の夏期講習に行ってたんです。」

衝撃。

即座に東京の予備校の資料を集めて親に泣きつき、なんとか冬休みの2週間の受験直前講習に参加させてもらえることになった。

講習代、宿泊代を全て自分で計算して親の目の前でお札を数えさせられ

「これだけ金かかってんねんから、絶対合格してこいよ」

と念を押された。

関西の、ビルの一室の画塾と比べて、東京の受験予備校は凄かった。

人数がめちゃくちゃ多い。

専攻ごとに違う建物がある。

予備校生を相手にした弁当屋が何軒もある。

課題ごとに巨大な石膏像が入れ替え、運び込まれ配置される。

本物のヌードモデルをデッサンできる。

東京芸大を目指して何度も浪人している多浪生がゴロゴロいて、そういう人たちはもう成人しているので、予備校には喫煙スペースがたくさんあった。

ほぼ高校生しかいない、浪人生はとても少なかった関西のビルの一室から、受験の直前、一番みんなが『仕上げてきている』タイミングでのこのこやってきた私。

圧倒されるような石膏像を前に、周りをみながら椅子を並べ、見渡した全員が持っていた構図を決めるためのノートと、使ったことのないデッサンのためのパンを売店で慌てて買い、デッサン開始の合図を待った。

初日、デッサンしながら泣いた。

レベルが違いすぎる。

使っている道具も数も違う。

私は高校3年間何を学んできたんだ。

色々なことに驚いて、悔しくて悲しくて。

そして、巡回している講師のなかで優しそうな人を選んで声をかけて

「初めてデッサンするんで何もわかりません。」

と泣きながら嘘をついて構図の入れ方や道具の使い方を教えてもらった。

その日、寮に戻って親に電話した。

「もの凄いレベルの、3浪や5浪の人がたくさんいる。

私と同じ年で地方の子も、これまでずっと長期休みのたびに下宿して講習に通ってきてる。

この2週間で私が合格できるレベルになるんは、無理や。」

自分の無知を恥じ、講習を受けさせてくれた親に感謝して、現役合格を諦めて浪人を覚悟した。

受験代金が惜しいので、来年に向けて空気を掴むために1校だけ一応受験をした。

落ちて、ホッとした。

受験の後、多浪生の人たちをつかまえて、住んでいる部屋の家賃や生活費を聞いて回った。

家賃は6万円くらい、生活費は抑えて月5万円くらい。

アルバイトをしている人と、全て仕送りでまかなっている人と半々くらいだった。

実家に戻って親に、話をする場を作ってもらい、浪人のために東京で1人暮らしがしたいと伝えた。

東京の受験予備校のレベルを知ってしまったら、関西での浪人はありえなかった。

予備校代と家賃分の6万円の仕送りを約束してもらって、東京の外れに安い部屋を借り、居酒屋でアルバイトをして生活費を稼いだ。

(余談:借りた部屋は変なおじさんがノックしてくるのでほぼ帰らず、予備校近くに住む子の家に住み着いた。)

夏以降はアルバイトをせず受験に集中するため、週6でアルバイトをしていたら、8月にストレスで腸が止まった。

「夏以降の生活費が不安で腸が止まったから8月から仕送りを月2万増やしてくれ」

と親に頼んだ。

受験に向けてバイトをやめてから私はなぜか予備校をサボりだした。

週に2、3回行くか行かないか。

コンクール(実技デッサンの模試みたいなもの)のときだけ顔を出すような始末。

サボっているわりにコンクールでの成績がさほど酷くなかったので調子に乗って、冬の入り口くらいまではサボっていたと思う。

何度目かのコンクールで多浪生を押しのけて1位をとった。

そのテンションのまま受験を乗り切った。

滑り止めの大学でも1位合格、己の本番の強さを再認識した。

その頃には東京芸大ではなく、好きな作家さんの出身大学を目標にしていて、そこに合格したので私の浪人は1年で終了。

東京芸大に受かるまで受験を続ける人、第二志望の大学で妥協することを決めて長い浪人生活を打ち切る人、さまざまだった。

浪人は自分で終わりを決めるまで期限がない。

大学は4年間で終了なので、少し怖くなった。

前半の2年はアルバイト三昧、サボりにサボった。

大学生といえばサボりだろ!と必要最低限の授業しか出なかった。

しかしなぜか3年生からスイッチが入り、朝から晩まで構内のアトリエに篭って制作に打ち込むようになった。

私が通っていた美大では、年に何度か作品の発表会がある。

発表会の度に高評価をもらった。

別の科の教授にみてもらった回では1人だけ認めてもらった。

学外のゲスト講師に高評価をもらった。

専攻のトップの教授に総評の中で1人名前を出して褒めてもらった。

このあたりで、「もしかして、私、ほんとに芸術家になれるんじゃないか?」という夢が具体的になってきた。

卒業が見えてきていた。

作家を目指す同級生たちは、作業スペースや使える機械の豊富さを享受するためや、モラトリアムを延長させるために大学院へ進学する人がおり、私もそれに倣った。

就活がしたくなかったのが大きな理由だった。

(私の専攻ではスーツを着てエントリーして…という就活をしている同級生は見当たらなかった…。)

『あわよくば』作家として生きていきたいと思った。

しかし、私大の大学院はめちゃくちゃ高い。

受験のときからお金を払わせ続けてきた親に、そこまでの負担はもうお願いできない。

これまでは「私の夢を応援してくれ!」という大義の元お願いを繰り返していたが、さすがに就活がしたくないから大学院の学費を頼む、とは言えない。

自分で払える学費の大学院はひとつだけ。

国立の東京藝術大学大学院。

当時たしか通年で50万円ほどで、前期20万円台、後期20万円台だったので「必死にバイトすれば自力で払える!」と判断した。

東京芸大の大学院の受験を決めたことを親に告げた。

落ちたら、東京でアルバイトをしながら作品を作ろうか、とぼんやり思っていた。

受験に向けて必死でポートフォリオを作った。

カメラが得意な友人に作品の写真を撮ってもらった。

先輩を辿って受験予定の専攻の教授に連絡をとった。

直接会って、ポートフォリオのアドバイスをもらった。

受験科目はポートフォリオと小論文と面接。

作品はともかく、小論文と面接で私が落ちるはずがなかった。

合格に驚きはなかった。

ただ、ホッとした。

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長い。

長いので一旦このへんにしておきます

何人かから「美大についての話が聞きたい」ってリクエストもらって、振り返りつつバーーーッと書いてみたら頭がタイムスリップしました。

人に歴史あり。

みんな書いてみたら色々あるんだろうなと思いますね。

ウケたら、今度続き書いてみます。

ウケてほっとしたたので書いた続きはこちら



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