こわれそう

タイトルからしてとても魅力的な曲で、

こわれそう きみがいないと
陽のあたる窓辺の席でひとり
もう こわれそう きみがいないと
昔よく聴いたステキな曲が流れてる

と、何度も繰り返されるサビが耳に残り、
切ない恋人同士の曲なのかな? と、
思ってなんとなくきいていた
(歌詞を読まずにきいていた)


先日、ラジオを聴いていたら、
この曲の作詞作曲をしている曽我部恵一さんが、この曲を作った時の話をなさっていて、
「シンプルなラブソングっていうふうに捉えてもらっても全然いいんだけど」と仰っていたけど、
私がなんとなくきいていたのとはまるで違う「きみ」について話されていて、
そのお話を聴いた上で歌詞を読んでみたら、
なんで私は恋人同士の曲だと思っていたのだろう? とそれまでの自分を不思議に思うほどだった。

私にはよくある経験なのだけれど、
(つまり、言葉が自分に入ってくるのに時間がかかる上に状況の理解にも時間がかかる)
曽我部さんのお話に、なるほど!と思うとともに、私自身がこの歌詞のような気持ちになったことがあるのかどうかを考えていたら、数日経ってしまった。

曽我部さんのお話を書き起こします。

「こわれそう」って曲ね、アルバムのレコーディングのわりと後半に仕上がった曲だと思うんですけど、この曲は、僕は、作った時にイメージがありまして。
まず、場所は、ニューヨーク。街角のドーナツショップに毎朝来るおじいさんがいて、その人のうた。
その人はもともとはパンクスだったんだけど、今はもうおじいさんになってる。
音楽をやってたのかもしれない。そのおじいさんのうたなんですね。
そのおじいさんが、時々、すごく古く、過去の話になってしまった若かりし頃の自分を思い出す。
「きみがいないと こわれそう」っていうのは、すべて満ち足りているんだけれども、若い頃の自分が自分からどんどん遠くなってしまうとこわれそうになるんだっていうような意味の曲なんですね。

(『THE MUSIC OF NOTE サニーデイ・サービスの青春狂想局』2024.4.19,FM COCOLO)

言われてみれば、「昔よく聴いたステキな曲が流れてる」という箇所は「あれもこれも色褪せてしまう前に」とも歌われていて、若い頃の自分が記憶から遠ざかっていくことへの悲しみとか寂しさとか、ひょっとしたら焦りなどもあるのかもしれなかった。
満ち足りた生活の中で、自分の老いを受け入れつつも自分を作ってきた若い頃の自分がいなくなっていくことで自分が「こわれそう」だと歌うのは切なかった。

そして、改めて聴いているうちに、「あるな」と思った。私にもあるな。

明確に覚えているのは、27歳の時で、
27歳はいろんなミュージシャンが世を去った年齢でもあったから、そもそも感慨深くその年齢を迎えたけれども、大人になっていく自分が、消えていく子どもの自分を持て余しつつも愛おしんでいた。
自分だけでなく、当時の恋人も、そういう私を同じ気持ちで見ていたので明確に覚えているのである。

今もあるに違いないが、今の自分も前の自分も対象化して客観的に見ることがなかなかできないので、ラジオを聴いてからもぼんやりしたし、今文章を書いていても自分の現在地が不明瞭ではあるけれど、ある。
私にも「きみがいないとこわれそう」と思う気持ちがある。

「きみ」の存在をこの曲を聴いて思い出したのかもしれない。

🔵MVどうぞ☺️

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