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人間はつらい修業でしか悟れない?本来の自分は悟りとは何か知っている


1.はじめに

人は大きな気づきを得たとき、悟ったと感じます。
「悟り」といいますと、何だか大げさな表現に感じますが、何かを悟った時には、ものごとの見え方や考え方が大きく変化をすることもあり、それによる決断や行動から、人生の分岐点を経験することもあるのではないかと思います。

人生の中で小さな悟りをたくさん得ることで魂は成長をし、最終的には真理を得ることで輪廻の世界を卒業し、この3次元の世界に転生することはなくなると考えられています。(諸説はあります)
これらは仏教を中心とした悟りの考え方ではありますが、どの宗教ももともとは人間が作り出した価値観や世界観に過ぎません。

人間にとって悟りを得ることが幸せのゴールだとすると、その過程で苦しみやつらいといった修業を経験することが、幸せへの道筋といえるのでしょうか?
幸せとは、悟りとはどのようなものなのか、ひとつの捉え方として何かを感じていただければと思います。
今回は、宗教の概念を取っ払った、宇宙視点から考える究極の悟りについてお伝えします。

2.仏教の悟りとは

さて、「悟り」という言葉は仏教の教えとして広く知られています。

ここで、仏教における「悟り」とはどのようなものなのか、簡単にご説明したいと思います。
一般的に悟りを開くとは「心の迷いがなく、真理を会得すること」を示しています。
また、涅槃ねはん解脱げだつという言葉を使うこともあります。

人間界において束縛・迷い・苦しみなどの雑念がなく、完全に執着がなくなった状態を、悟りの境地に達したといえます。
また仏教では煩悩を持っていては悟りを得ることはできないとされています。

煩悩とは、主に人間が持つ欲望(物欲・性欲)のことをいい、迷いや苦しみの原因となる「けがれた心」のことをいいます。
仏教の教えでは、一人の人間につき108種類の煩悩を持っているとされ、このけがれた心をひとつひとつ手放していくことで悟りを深めていくことになります。

また、悟りを開くには52段階にわたるステージがあり、これらを全てクリアすることで真の仏となります。
この状態に達したのは、仏教の開祖である釈迦(ゴータマ・ブッダ)ただ一人だけだといわれています。

人間はこの世界に生を受け、魂を磨くために何度も転生を繰り返し、悟りを開くことを最終目的として修業をしているともいわれています。
人はさまざまな経験をし、つらい修業を積み重ねないと悟りを開くことはできないのでしょうか。

3.人は悟りを開くことはできるのか?


人間が幸せを感じる時は、物質的に恵まれた環境に身を置くことよりも、精神的に豊かで満たされた心の状態である時です。
先ほどもご説明しましたが、仏教における悟りとは雑念がなく、完全に執着が無くなった心の状態のことをいいます。
みなさんは、人間が悟りの境地に達することは本当に可能だと思いますか?
人間には多かれ少なかれ欲望というものを必ず持っています。

欲望を満たすためには願っているものを手に入れない限り満たされることはありません。
それさえあれば満たされるのに、現実は無い…。
このギャップが苦しみを生み出します。

この苦しみから逃れるには「キッパリ諦める」という決断がベストですが、現実はそのような簡単なものではありませんし、例え願っていた物を手に入れたとしてもまた次の欲望が必ず出てきます。

それに加え欲望は長く持ち続けると執着になり、その思いから離れることが難しくなります。

つまり、人間である以上は欲望を完全に消滅させることは不可能なことなのです。
ただ、欲望に振り回されず現実をしっかりと受け止めることで、その苦しみを軽減させる方法を自分で見つけ出すことが大切です。
人間は悟りを開くことは不可能だといえます。
ですが、悟ること、つまり気づきを得ることはできるのです。
ここからは宗教の概念を外し、宇宙視点から考える悟りについて触れてみたいと思います。

4.宇宙視点の悟りとは

宇宙には善や悪といった区別は存在していません。

このような二元論的な考え方は3次元世界である地球の独特なルールのようなものです。

人間は良い行いをし、正しく生きなくてはならない…
正しく生きることでけがれ(悪)を祓い、崇高な心でいないと天国に行くことができない…
どの宗教の概念も人生とはつらく苦しいものだという観念がベースになっています。
もちろんつらい経験から学びを得ることは多く、決してムダな体験ということではありませんが、つらい経験なくしては幸せに導かれないといった考え方は、何らかの教育や情報によって刷り込まれたものです。
この世界は二元性で成り立っている世界です。
善悪を中心とした区別がある考え方は、3次元的な価値観であり苦しみを生み出します。

そして、善も悪もただそこに存在するだけで評価や判定をしない考え方が5次元的な価値観です。

この考え方は二元性が統合された考え方ですので、苦しみを生むことはありません。
この説明ですと3次元的な価値観が悪く、5次元的な価値観が良いと言っているように聞こえてしまうかもしれませんが、そのようなことではありません。
3次元の価値観は二元性の世界であるからこそ、5次元では感じることができない貴重な感情を味わうことができます。

どちらの価値観も正解ではありませんし不正解でもありません。

宇宙視点で悟りとは何かを考えてみると、全てはありのままで何も問題はないということに気づくことが悟りではないかと思います。

自分以外の何かになろうとせず、誰かの前で善人を演じることもなく、何かや誰かと比較をすることもなく、素の自分が最高に価値があるということに気づくことが悟るということです。

何度も転生をし、つらく苦しい修業の果てにつかみ取るものではなく、実は全ての人はすでに悟った状態であることに気づいていないだけなのです。「今、生きている」ということは、実は特別な問題は何もないということなのです。

本当は全てがある状態なのに、無いという不足感の幻想ばかりを見せられているのです。
私たちは何かに意識を操られていることに気づき、その状態からそろそろ抜け出す時が来ているのです。

人類の意識は、そこまで進化してきているのです。
私たちは、ありのままの状態で完璧であることに気づくことが究極の悟りなのです。

5.まとめ

いかがでしたか?悟りを開いた釈迦は中道ちゅうどうという教えを残しています。

これは真ん中という意味ではなく、両極端のどちらにも偏らない中立な立場を貫くことをいいます。(中庸ちゅうよう・・・真ん中という意味)
善と悪、光も闇もただそこにあるだけで人間が都合よく意味づけをしているだけなのです。
私たち人類も、ありのまま存在しているだけで成立しているのではないでしょうか。

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