切片

ノオト以前のこと(その1)

あなた方は若くして転職しました。概ね5〜10年間の社会人経験を経て、NOTEというチームに転職し、NIPPONIAという活動に参画してくれています。私の場合、転職したのは55歳ですから、相当の奥手です。兵庫県で土木職の職員として25年間を勤めた後、篠山市副市長を1期4年間勤めてから公務員を辞めました。転職に至るにはそれだけの時間が必要でした。生きた時代や暮らした組織が違うから一概に比較できないとは思いますが、自分が社会人5年目、10年目のことを思い起こすと、とても転職して使い物になるとは思えませんから、みんな立派だと感心しています。

丹波との関わり

それに、私は、いつか転職するのだと決心していた訳ではありません。転職は、言って見れば「成り行き」です。

話は、平成13年春に遡ります。私は「丹波県民局まちづくり課長」として丹波地域に赴任しました。昭和59〜61年度に柏原土木事務所で河川の災害復旧事業を担当して以来、2回目の丹波赴任でした。(ちなみに、丹波地域は兵庫県と京都府にまたがっていて、当時、兵庫県側は氷上郡6町(柏原町、氷上町、山南町、春日町、市島町、青垣町)と篠山市でした。その後、氷上郡6町は合併して丹波市となり、篠山市は丹波篠山市に市名変更しました。)

丹波地域というのは、兵庫県の良き田舎なので、つまり「まち」がないので、まちづくり課長になったものの、どうやって「まちづくり」をするのか疑問に思ったものでした。まちづくり課は、そのとき県下の各県民局に新設された課で、課員のいない課長ひとりの課でしたから、4月1日には着任して窓口業務を始めました。けれども、最初は、県民からの相談もなければ、開発案件の協議に来る事業者もありませんでした。

赴任して暫くしてのことですが、井戸知事が「篠山にミニ開発は似合わない、なんとかしなさい」と指示を出します。JR篠山口駅や舞鶴自動車道のインターチェンジ付近に宅地分譲のミニ開発が目立ち始めていたのです。知事が公務で地域を巡った時に見咎めたものと思われます。

慌てて現場視察にやってくる県庁幹部の面々は、口を揃えて、知事はまた何を言ってんだろうね、という口振りです。それらのミニ開発は法令に適合したものだし、都市部でも地方部でも当たり前に起きているものなので、知事の指示は気まぐれで、扱いにくいものだと困惑しているようでした。法律を守らせる立場の役人としては、どうしてもそのような発想になります。けれども、法令や制度といったものはヒトの都合でヒトが作ったルールですから、絶対的なものではありません。現実に照らして、時代に合わせて、変えていくものです。

私は、知事の指示を、なるほど、と思ったので、赴任期間中に、兵庫県の緑条例(緑豊かな地域環境の形成に関する条例)を改正してミニ開発を規制することにしました。そして、どうせなら、美しい農村景観を守り、育てる条例に仕立てることにして、新しい景観ガイドラインを作成することにしました。2年の赴任期間を3年に伸ばしてもらって、私は条例の改正を終えることができました。土地利用の規制と誘導、良好な景観の形成、緑化の推進をひとつの条例で実現しようとする画期的な制度です。

例えば、篠山城下町、福住宿場町、柏原城下町などを「歴史的な町の区域」、周辺の田園地域を「さとの区域」とゾーニングし、それぞれに土地利用ルール、景観形成ルール、緑化ルールを定めています。特に、自治体の条例で土地利用規制を行うことは極めて稀で、穂高町(現在の安曇野市)に先例があるだけでした。(その後、篠山では篠山市土地利用基本条例へと進展していくのですが、残念ながら、これに追随してくる他の自治体はありません。地域の美しい空間形成には、NOTEチームが展開しているような文化的エリア開発とともに、一定の土地利用規制が必要なのですが、従来型の不動産開発事業者は反対しますから、自治体は腰が引けてしまいます。情けない話ですが、それが実情です。)

次回は、篠山での古民家再生事業のはじまりについて。成り行きで転職に至る話は、もう少し先になります。

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