妄想(再掲)

 2021年5月24日。一人と大勢の夢が叶い、189人と、さらに大勢の夢破れる日。壁の時計が正午の足音を刻み、事務所は居心地の悪い静寂に包まれる。もうレッスンが終わる頃だろうか。CM案件の資料を閉じ、社内チャットで担当アイドルに声をかける。


『レッスンが終わったら事務所まで』
『結果来るから』


程なくして、文香から返信が来た。


『今から向かいます』



 鷺沢文香。デビューしてから過去7回、全てランキング圏内。平均順位はあの高垣楓に次いで堂々の2位。過程としては申し分ないが、頂点にはあと一歩及ばなかった。惜しくも2位で終えた前回総選挙での彼女らしからぬ悔しがりようは、今でも瞼に焼き付いている。彼女をシンデレラの座に押し上げたいという思いが確かな使命感に変わったのは、おそらくあの時からだ。

 そして迎えた第10回総選挙。節目の年にあって、彼女はシンデレラガールの最有力候補と目されていた。しかし、いざ蓋を開けてみると選挙戦は熾烈を極め、対立候補の呼び声高い一ノ瀬志希に遅れをとることもしばしばあった。選挙期間が終わった今では、日ごとに肥大していく不安だけが胸に残っている。私はプロデューサーとして最善を尽くし、彼女も、そして他の担当アイドルたちも、私の期待を遥かに上回るパフォーマンスで応えてくれた。

 もちろんそれはとても嬉しいのだけれど、彼女の事を、またどうしても彼女に肩入れしてしまう自分の事を思うと悶々としてしまって、アルバムを2枚続けて聴き通す夜が続いた。そうして心を押し殺し、押し流そうとした結果、私の想いはかえって際立ってしまうのだった。こんな事では、特定のアイドルを贔屓目に見ているとの誹りも免れないだろう。それでも、私自身を持ってしても変えられないほど堅固になってしまった意思を無視する事は出来ない。            

 願わくは「総選挙の優等生」にシンデレラガールの栄冠を。



 バシャリ。事務所のドアが勢いよく開いた。皆の視線を一挙に浴びた文香が頬を赤らめ、気まずそうに笑う。


「あ………すみません……あの、結果はもう出たのでしょうか」

息を切らしながらバタバタとデスクに駆け寄って来た。芳香剤に混じった汗の臭いが僅かに鼻をつく。レッスンの後、こちらに直行したようだ。少し遅れて他のアイドルたちも続々と集まって来て、事務所内はちょっとした喧騒の渦に包まれる。先程までの空気もだいぶ緩んだなぁと思ったちょうどその時。


 「ドアは閉めておくように。」


相も変わらぬ仏頂面に挨拶代わりの説教を携えた御城専務が、事務所の入り口に立っていた。


「はぁい」
「……すみません」


子供たちの謝罪をよそに、つかつかと入室する専務。緊張と不安、そして微かな期待とが事務所内を錯綜し、この場に集まった面々を縛りつけてゆく。


「総選挙の結果が出た。1位のみこの場で発表する。」


ひとまずの終局を告げるその口調は、心なしか上ずって聞こえる。或いは私が浮き足立っているだけか。当然、心の準備はまるで出来ていない。しかし、現実が私の憂慮を顧みてくれるはずもない。せめて、結果だけでも受け止めなければ。それが私の、プロデューサーとしての務めなのだから。でも──
「………香。」


…………?


「第10代シンデレラガールは鷺沢文香だ。おめでとう。」

……!!



鷺沢文香。シンデレラガール。ああ、遂に。


「詳細は後ほど全体チャットに送っておく。18時の一般発表までに、各々コメント等準備しておくように。」



 拍手と歓声の入り乱れる室内に、感情を追い越してしまった私が立っている。間違いなく嬉しいはずなのに、胸には何も込み上げて来ない。意識が身体の奥の方にじわじわ広がっていくような感覚。そんな私を心のどこかで訝しみつつ、ただ呆然と、ドアの上あたりを見つめる。いつの間にか専務の姿は消えていた。


「プロデューサーさん……! 私、やりました…!!」

高揚を抑えきれない様子の文香に抱きつかれて、思わずデスクに手をつく。続いて、先刻のそれとは比べ物にならない汗の臭いが鼻腔を貫く。やっと私の背中を捉えた歓喜と安堵の念が、心の底に広がりはじめた。本当に、本当に良かった。私の尽力も、葛藤と不安も、そして何より私の自慢の担当アイドルが報われ、認められたような気がして、


「ああ。ありがとう。」


思わず口をついたのは、そんな感謝の言葉だった。


「おめでとう。……本当に良かった!」


慌てて補う。

                      「お礼を言うのは私の方ですよ、プロデューサーさん。頂きまで導いてくださって……」


「ははは。そう言われると何だか照れくさいな。でも、今回の主役は間違いなく鷺沢さんだよ。」


「そんな……身に余るお言葉を……。けれど、貴方がそうおっしゃるのなら……」


 

 ただならぬ可能性を感じ、書店で声をかけた8年前のあの日。レッスンに疲弊し、読書の時間が取れないとぼやいていた下積み時代。慣れない人の目にあてられて、白髪が増えたりしていたらしい。そんな苦境を地道に乗り越えて確立した人気アイドルの地位は、生まれ持った美貌と、そのギフトに頼りきりにならない向上心の賜物だ。時には無茶振りとも取られかねない仕事を振ったりして、戸惑われる事もあったけれど、それでも彼女は一つ一つ確実に乗り越えていった。そうした経験が内向的だった彼女に成長と自信をもたらし、高みへと続く階を築いたのだ。


「……プロデューサーさん?」


 声をかけられ、我に返る。回想に気を取られて黙りこくってしまっていたようだ。途端に、周囲の視線と上半身を包み込む体温とが私の意識を占拠し始める。


「あの、ちょっと、苦しいというか、恥ずかしいというか……。」


「ああぁ、あの、すみません、ええ、その、取り乱してしまって……」

慌てて一歩二歩と後ずさった彼女の目には、微かな涙が浮かんでいた。悔恨が溶け出した昨年のそれとは対極にある、輝かしい雫。出来る事なら、歓びを噛み締める一時が欲しいところだけれど、いつまでも歓喜に浸っている訳にはいかない。彼女はシンデレラガールとして、私はそのプロデューサーとして、やるべきことが山積している。


「申し訳ないけど、いつまでもこうしてはいられない。コメントの準備もあるし、告知ページに載せる写真も撮らなきゃ。それからSNSで流すムービーも。」


「……はい。忙しくなりますね」


平静を取り戻そうとしているのだろう。けれどその目に、口元に、溢れた喜びが滲んでいる。


「すまない。」


「いえ。栄光の余韻は、後ほどゆっくりと……」


「ああ。……ところで……まずはその、……着替えて来てくれないかな……。」








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