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多様性の力

昨日、社内のミーティングで、どんな価値観を社内に共有していきたいかというテーマで話をした。そのとき、社長の澤田さんが真っ先に提唱した言葉が、「多様性のパワーを信じる」だった。恥をしのんで告白すると、この言わんとしていることが、私には即座に理解できなかった。多様性がパワーをもたらすのは、一体どんなときなのだろう。

多様性やその英訳のダイバーシティという言葉は、よく耳にする。ダイバーシティ経営という言葉すらある。重要なキーワードなのは間違いなさそうだ。それにしても、カタカナになると有り難みが増すような気がするのは、私だけだろうか。

ダイバーシティの切り口は、色々とあるようだ。性別、年齢、性的傾向、宗教、人種、国籍、政治的な志向性などなど。これらは、組織構成員の個々人がもつ個性ないし属性だ。

ある組織にダイバーシティが浸透している、いない、というとき、それはどのような尺度で考えるのがよいだろうか。組織のメンバー構成をつぶさにみるとわかるかといえば、そんなことはなさそうだ。プロ野球チームは、主に若い成人男性ばかりの組織で、メンバー構成には偏りがあるが、組織の目的に照らせば妥当なものだ。ここには、組織の目的という変数があるわけだ。

もうすこしましな例をあげれば、一般的な企業で、女性の社員が著しく少なかったり、管理職の男女比に著しい偏りがあったりする状態は、その組織の目的に照らしても妥当な状態とはいえなさそうだ。

つまり、組織の目的に照らして、その構成員としての機能ないし役割に本質的には関係のない個人の属性なり個性によって、過度に優遇されたり差別されたりしないということは、ダイバーシティの基本的な要件といえそうだ。

このような意味でのダイバーシティへの要請は、個人の基本的な人権を尊重するという文脈からまずは出てきているものと思われる。これは、不利を被る属性を抱えている人の立場になって考えてみれば、自明なことだ。

では、本文の冒頭の問いに戻ろう。組織の立場からみて、ダイバーシティの意義とはなんだろうか。

多様な属性を持った人たちが、組織のなかで共生するというとき、そのときの属性の取り扱われ方には、おおきくふたつの方向性がある。ひとつは、そのような属性を組織のなかに極力持ち込まないこと。もうひとつは、それら属性を個人が意図的に発露させていき、組織としてもそれを後押ししていくことだ。

前者は、たとえば、仕事には関係ない政治的信条や宗教を職場に持ち込まないことなどが、わかりやすい。ここでは、干渉しない、されないことが、心地よい関係につながる。

しかし、このような、表に出せない属性ばかりだと、職場で本来の自分をだすことができなくなり、かえって不自然だし、窮屈だ。そのため、多様性を大事にする組織では、仕事に直接関係しないことも含めて、自己開示が積極的に行われていくことが必然的だ。つまり、組織のなかに多様な人たちがいることに加えて、彼らひとりひとりが、その個性を高らかに開示し、主張しあうような組織が、よりダイバーシティの進展した状態といえる。

このような組織は、多くのマネージャーにとっては、悪夢なのではないだろうか。みんなが思い思いに、自分の主張を声高に叫ぶような会社では、どうそれらを取りまとめて、組織を管理してよいかわからない。人々を統制し、コントロールすることで機能するような組織と、ダイバーシティの相性は良くなさそうだ。

こうして考えていくと、ダイバーシティが力を発揮するシナリオには、なかなか辿りつけない。ダイバーシティが価値を生むとき、異なる意見や立場や価値観どうしが対等に対話し、交流して、掛け合わせによるイノベーションの創出や、矛盾を克服するような自己変容が生まれるような場面が想定される。この前提には、違いを違いとして認めつつも、同時に、他者から学んで自己を変容させる柔軟さ、他者への尊重、背景を含めた自己開示と傾聴、緊張や対立を調停して克服する力といった知性が前提になる。言葉をかえれば、大人にならなければならない。

僕らが大人になることを義務付けられることに、もしかしたら、ダイバーシティの本当の意義はあるのかもしれない。

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Kazu IIDA

education and learning
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