謝罪

最近、自分のおじさん化を実感することが増えてきた。おとうさんの枕がくさいと息子がいう。通勤電車で、座れる場所をつい探してしまう。日中からすぐ眠くなる。ほかのひとのちょっとした言葉づかいが気になる。

言葉づかいでいえば、「すみません」「失礼しました」「お詫びいたします」など、謝罪の言葉への違和感が自分のなかで増幅している。ちょうど今、乗っている電車で遅延が発生しているのだが、「ご迷惑をおかけし申し訳ありません」というお詫びの車内アナウンスを聞いたところだ。

会社のある後輩は、「すみません」が口ぐせで、謝ることがありえないようなシチュエーションでもこれを連発してくるので、「頼むからスミマセンをやめてくれ!」と注意したことがある。

最近の芸能ニュースでいえば、TOKIO。山口メンバーの謝罪はまあよしとしても、他のメンバーまで涙を浮かべて謝罪をしていることも、それが当たり前かのように報道されていることも、気にいらない。

理由はとてもシンプルで、謝罪には「相手」があるということだ。怒っているとか、悲しんでいるとか、がっかりしているといった相手の感情をまず受け取って、その感情に対する自分の責任を認めて伝える行為が謝罪だ。すこしおかしなたとえだが、もしあなたが私の顔をひっぱたいたとしても、私にとって叩かれることが快感なのであれば、それは謝るべきことではないのだ。

すぐに謝るということは、相手の感情の基本的な確認を怠っているという意味で、相手に対して本質的には失礼な行為なのだとおもう。

すぐに謝ることをよしとする規範に意義をあえて見い出すならば、相手の感情を先回りして予測すること、忖度することなのかもしれない。しかし、それは、人の感情の多様さへの見通しが甘すぎるのではないか。

または、一部の面倒なクレイマーやモンスター的な手合いの方々への予防のために発達した手法なのかもしれない。だとしたらなおさら、一緒にしないでくれ、と思ってしまう。

では、謝らないかわりに、どんな言い回しをすればよいか。たとえば、電車の遅延の車内アナウンスであれば、こんな言い回しはどうだろう。

大幅な遅延が発生しました。乗客の皆さまにご不便をおかけしているかもしれないことを、私は残念に思っています。

この言い回しは、謝罪のようにみえて謝罪ではない。自分の感情をただ伝えているに過ぎない。相手の感情を変に決めつけることはやめて、自身の行動や態度のすべての責任を自分のなかに置いて相手には置かないことが、そのポイントだ。

なお、この言い回しは、NVCにヒントをもらっている。とても興味深い考え方なので、明日以降のどこかで、NVCのことを書こう。

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