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書くことの目的

5月に取り組んだ、一か月毎日ブログを書くチャレンジについて書く。今回は、昨年に引き続き、2回めのチャレンジだった。

いきなり反省になるが、改めて実感したのは、この一か月という期間がとても長く感じられたことだ。前回は、途中で書くネタが枯渇していき、絞り出すのがきつかった。今回は、比較的に書くことの苦しさは軽減されたものの、書くことに飽きを感じて、中だるみしてしまった。なぜ飽きたかといえば、書くことそのものが目的になってしまって、それ以上の目的を見失っていたのかもしれない。そこで、一度原点に立ち返って、私にとっての書く目的を再考してみたい。

ブログを書くという営みは、独りよがりだ。お金が儲かるわけでも、誰かを幸せにするわけでもない。そもそも、誰かの目に触れる可能性すら、限りなく小さい。せいぜい、親しい友人たちに対する近況報告に毛が生えた程度のものだ。

その程度の価値しかない文章を、では、なんのために、多くの時間を投じてまでして書くのか。私の場合は、自分との対話のため、というのがしっくりくる。もちろん読者はそれなりに意識するのだが、自分という読者がその最前列に座っている。仮に自己満足であっても、自分という読者のめがねにかなうものでなければ、書く意味はないと思っている。

書くことは、自分を知るためのきわめて有効な方法だ。外見は、鏡にうつる自分の姿を見れば、ある程度は確認できる。しかし内面は、脳を輪切りにしても、もしくは神経伝達物質の分泌をつぶさに観察しても、よくわからない。普段の私は、生まれては消えてを繰り返すとりとめのない思考にとらわれて生きているため、自分の意識を内省的にモニタリングするのには限界がある。そこで、思考を文章に落とし込むと、その文章を第三者のような気持ちで観察することで、初めてその思考を吟味することができるようになる。

今日、一緒にチャレンジをしていた毎日ブログ仲間たちと会って話していて、私のブログに対するコメントを頂いた。私のブログは、「ポエム」なのだそうだ。痛々しい響きのある言葉だが、納得できる。自分以外の読者を置き去りにすることを厭わない私の姿勢は、たしかにポエマーなのかもしれない。なんとなく、このままで良い気がしている。一人称があってこその二人称、二人称があってこその三人称で、まだ私は、自分以外の読者にとって価値のある文章を書くステージに達していないということなのだろう。その先がいつか開けることをひそかに期待しつつ、このまま、一人称を愚直に続けていこう。

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