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病、市に出せ

先日の児童の虐待死事件の投稿の続きになってしまうが、ハフィントンポストで、事件発生までの詳細な経緯がわかる記事を読んだ。

これを読んでまず気づいたことは、児童相談所の職員の奮闘ぶりだ。ニュースに最初に触れたときには、実は脊髄反射的に、行政対応のみっともない不手際を想像してしまったが、失礼な話だ。ここまでちゃんと仕事していたことに敬意すら覚えた。香川から東京への事案の受け渡しに落とし穴があったことは残念だったが、属人的な要素のあるこのような仕事では、引継ぎにはどうしても限界がある。今回は、そのような体制の間隙を、加害者たちに意図的に利用されてこの事態に至ったようにも思えて、気の毒だった。香川の職員さんたちは、ここまで頑張ってきたのに最終的に報われない結果になってしまい、どれほどの無念と無力感だろうと想像してしまう。

加害者に関していえば、父親の過剰ともいえる几帳面さ、生真面目さがうかがえる。子どもへの教育に対する真剣さや徹底ぶりという面だけを取り出せば、ちゃんとした親という印象すら受ける。しかし、信念の強さの反面、おそらく、他者との対話や受容力には弱みを抱えていて、児童相談所の職員たちの助言に真摯に耳を傾けることはできず、むしろ反発して、自身の、こうあらねばならないという思い込みを強化させていったのかもしれない。

自分にはたまたま5歳の息子がいるため、5歳という年齢の心と身体の状況にはある程度の感覚がある。内面はまだまだ幼児で、すぐ泣くし、ワガママばかりだし、すぐに嘘をつくし、なにか悪いことをして怒られてもすぐにケロッと忘れてしまう。このように、人間としてまだまだ足りない面だらけの一方で、話す言葉はやけに大人びてきて、一人前の口のききかたができるようになる。

この年齢は、心の成長と頭の成長に大きな不均衡がありそうだ。ひらがなの練習をいっぱいさせられて長い文章でも書けた結愛ちゃんは、話す言葉は大人びていただろう。その一方で、幼児らしさも多分に残していたに違いないため、親からしてみれば、なぜこんなこともできないのか、とか、生意気な口をききやがって、といった、怒りの感情を誘発しやすい状況だったのかもしれない。また、もしかしたら、児童相談所の介入によって、結愛ちゃんが快活さを取り戻した結果として、親の理想からの逸脱が起こった可能性だってある。

これらは、どれも憶測でしかないのだが、子育てで完璧さを求めてはいけない、とか、子どもは親の思いどおりにはならないということとか、当たり前といえば当たり前のことを親は肝に命じる必要があるし、もしそれが知識としてないのであれば、教育なり啓発なりが必要な分野に思える。

最後に、最も心に引っかかったのは、父親が児童相談所に対して抱いていたらしい、ネガティブな感情についてだ。児童相談所の介入を受けることは恥ずかしいことで、世間体がわるいというステレオタイプな捉え方は、たしかによくありそうだ。世間の目は、程度の差はあれ誰でも気になるものなので、仕方ないことのようにも思えるが、そもそもは子育ての問題を一緒に解決してくれる味方のはずの彼らが、親から疎まれてしまっているとしたら、それは、重大なミスコミュニケーションだ。

仮に、児童相談所の介入を受けるに至った事情として、親に何かしらの問題や落ち度があったとしても、それに恥というレッテルを貼ってしまうのでは、前向きな問題の解決は望めない。むしろ、現状の問題を放置せずに向き合うことに対してポジティブな評価がなされて然るべきだし、そういう社会規範がないのであれば作ればよい。

その点、希望になるのは、以前の投稿で紹介した『生き心地の良い町』の、徳島県旧海部町の事例だ。この、日本で最も自殺が希少な町では、「病、市に出せ」という格言がある。この標語が意味するところは、なにかトラブルがあったとき、それが取り返しのつかないことになる前に周囲に相談せよ、ということだ。海部町では、たとえば、うつの受診率が高いそうだ。軽症の段階からすぐに病院にいって早期対応することが、重症化の抑止につながっているということだ。

このように、長い目でみれば、社会の規範は、私たちの手でつくれるはずのものだ。その際、人の弱さや未熟さへの理解と寛容さはキーワードになりそうだし、各論ではあるが、児童相談所のイメージをもっとあたたかくて優しいものに刷新することだってできるだろう。

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Kazu IIDA

education and learning
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