感情と文化

感情について考えるシリーズ投稿の3本目は、感情と文化の関係について、いま思っていることを書いておこう。

前回書いたとおり、感情において人は自由をもっている。しかし、その自由を制約するものもたしかにある。文化は、その最たるものだ。

たとえば、ひとに決して迷惑をかけてはいけないという規範が村のなかにあったとする。その村では、困っているときでも、ひとに相談することは恥ずかしいと教え込まれ、我慢や忍耐が奨励される。これはいつしかみんなのなかで当然視される価値尺度になる。ほかのみんなと同じであれば、それを疑うことも難しい。

このように、同じインプットに対して、同じ感情のアウトプットが生み出されると、それがソマティック・マーカーの作用を通じて、判断と行動に影響を与えて、特定の行動そのものが奨励されたり抑止されたりすることになる。

このように、文化は、複数の人のあいだで共有されている感情の型紙のようなものだ。それは、感情を、さらには行動をも制約する形で作用する。文化は、人の行動に暗黙のルールを課すものといってよさそうだ。このようなルールの絶妙なところは、本人にとっては自然な、自発的な形をとって発現するため、違和感や抵抗を感じさせないことだ。

文化はこのようにとても強力だが、同時にリスクもありそうだ。もしその文化が規定する行動様式がいまの環境によくフィットするのであれば、その文化は栄えるかもしれないが、その逆もまた起こりうる。時代に適合しない文化は、淘汰される。日本は大丈夫だろうか。

実際のところ、個人にとって文化は与えられるものであって、すきに選択できるものではない。歯がゆさを感じてしまう。

とはいえ、自分が新たな会社やプロジェクトチームの立上げに加わる場合は、その小さな組織の文化を自分たちでこだわりぬいてつくることだってできる。また、家庭も小さな単位だ。こういった、半径数メートルの範囲では少なくとも、文化づくりに主体的に関わることができるのは、せめてもの救いだとおもえる。私は、きっと自由が好きなのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?