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現代史と映画の関係

映画『タクシー運転手』の感想を書く。多少のネタバレを含むかもしれないので、これから視聴するつもりの方はご注意ください。

本作品は、1980年の光州事件を題材に、潜入取材するドイツ人ジャーナリストと偶然行動を共にすることになったタクシードライバーの物語だ。これらふたりは、実在の人物がモデルになっている。

光州事件の基本情報を確認しておこう。Wikipedia によれば、軍事独裁政権に対して光州の住民が起こした大規模抗議行動で、政府軍による容赦ない鎮圧によって、約一週間の闘争のあいだに、150名を超える死者をだした、非常に血なまぐさい事件だ。その後、本事件について語ることは長らくタブーとされていたが、徐々に再評価が進み、今では反独裁民主化運動のシンボルとして、公式に認知されている。

つまり、この映画は、たった40年前の凄惨な事件の、実在の人物をとりあげた作品だ。たった40年前ということを改めて強調すると、それを記憶に留めている当事者たちが、いまだ山のように生きているということだ。このような危険な題材を、いま映画として正面から取り上げることの意味、そして、これが韓国国内で記録的な大ヒットを飛ばしたことの意味が、まず気になる。

これを語るには、私には韓国現代史の基本知識が欠け過ぎているが、少なくとも、本作品が、いまの韓国国民のボリュームゾーンの心を的確に捉えているということは、いまの歴史認識の中央値は、この映画が描き出す物語の辺りにあるとみてよさそうだ。

本作品での本事件の描き方は、踏み込むようで踏み込みきらない、絶妙の距離感を保っている。日々の生活で頭がいっぱいで、政治に無関心なソウルのタクシー運転手を主人公に据えることにより、彼の目にうつる暴力という現実だけが提示され、それ以上の事件の深層はわからない。ひとりだけ、「悪」をわかりやすく象徴する私服警官の登場人物がいるものの、それ以外の加害者の顔は巧妙に隠されており、その本質は靄の中だ。

他方で、本事件の暴力性と悲劇性を際立たせるのは、光州市民の大学生たちや地元タクシー運転手たちの、素朴で朗らかであたたかみのあるキャラクターだ。この助演の面々が相当の芸達者で、主演のソン・ガンホが完全に食われたように私には思えた。

つまり、本事件の、善良な市民が弾圧の犠牲になった、という、誰にとっても疑いようのない事実までが、本作品が提示しえる射程で、それよりも微妙な政治的なイシューに踏み込むことは、巧みに避けられている。

この作品の最大の勝利のポイントは、この巧みな設定にあるといえそうだ。

現代の歴史事件を映画として取り扱うことの、難しさと意義を、同時に感じさせる。映画はあくまで物語なので、事実を忠実に再現するものではない。現代の私たちの当該歴史に対する認識のありようが、物語を規定してしまう。光州事件は、上に述べたように、民主化運動のシンボルとしての意味が韓国国民には強く共有されており、かつ生存する目撃者が多数いる。歴史認識の磁場から離れることは不可能だ。

他方で、この映画は、現代の韓国国民にとっての、光州事件という国民的な事件の、共有される物語なのだともいえる。大学生のジェシクの無残な亡骸に主人公たちが対面するシーンは、本作品中盤のひとつのハイライトだが、このシーンでともに涙を流すという体験に、1200万人の韓国人は殺到したのだろう。

映画と歴史の関係といえば、『この世界の片隅に』が思い出される。1940年代の呉と広島という悲劇の地を舞台に、太平洋戦争、そして原爆投下という、日本人が共有する強烈な物語を、市井の人々の視線から紡いでみせたのが、この物語だった。私は、これを観たとき、涙が止まらなかった。

これ自体はひとつの独立した物語でありながら、日本人として繰り返し語り共有されてきたナラティブと共鳴して、私のなかで嗚咽を生んだのだと思える。おそらく、日本人のあいだで共有されている戦争の語りの文脈を知らない外国の人では、本作品の感じ方がおおきく異なるはずだ。

両作品の鮮明な違いは、それが40年前か、80年前か、という点だ。80年という歳月は、生の記憶が保存されるギリギリのタイミングだ。当時を知る人々の多くがこの世を去り、記憶の風化が避けられない一方で、現代との時空的な隔たりによって、しがらみが減り、客観性が得られるという側面もある。それが、『この世界の片隅に』の描く世界の質の高さに寄与している。

光州事件についても、今後、記憶の風化という避けられない経過を辿りながら、新たな物語が紡がれつづけるのだろう。

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Kazu IIDA

education and learning
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