見出し画像

時短家事はだれの味方か?夫婦間の「礼儀」を考える

朝、こんな記事を読んだ。

主旨としては、女性の社会進出と並行して広まるはずの「時短家事」に心理的ハードルを感じる女性も多いよ、という現代主婦の在り方を指摘した内容だ。

Twitterでもだいぶ拡散されていたようで、いくつかの感想も目にしたが、本文中に働きだす妻に対して「子どもを最優先に、家事は今まで通りするのが絶対条件。毎日総菜とかはやめてね」と夫が発した、という記載があるため、この箇所への非難が目立った。

経済DVだ、奴隷扱いだ、などの強めな言葉が多いことは、この構図への怒りの表れでもあり、Twitterというプラットフォームの特性でもあるのだけど、ここまで極端な例でなくても、夫婦間で知らずに相手を抑制してしまうことは、ままある。

今回はその構図に関して書いてみたい。

料理は女性の専売特許じゃない!でも…

現代は共働き家庭が増え、女性の人権や男女の平等を叫ぶ運動がほんとうに盛んだ。20年前の常識が、どんどん変革している過渡期である。

そのため、女性は料理ができなきゃ恥ずかしい、という概念や、結婚には3つの袋がありまして、まず胃袋~の結婚式で恒例だったスピーチも、過去のモノになってきた。

この流れ自体は、好ましいものだと、私は思っている。

普通に考えて、男性も料理ができないよりできたほうがいいに決まっているし、家庭の維持に絶対必要で、男女問わず苦手にも得意にもなりうる家事全般を、「女性ができないのはよくないが、男ができないのは別に問題ない」という評価基準は、不平等だ。

なので、「性別に関係なく、家事はできたほうがいいし、でも苦手な人だっているよね」という考え方は普及して欲しい。

しかし一方で、「男性優遇・女性軽視、絶っっっ対、反対!!!」と強い主張をもち、女性の立場を押し上げようとするがあまりに、「女性に負担が多い家事バランスは全部悪!ズボラ自慢が賢い妻!」という風潮が存在感をだしていることも、個人的に気になっている。

冒頭の記事で取り上げられていた女性は、総菜を出すことに罪悪感をかんじており、手作りの食事をアイデンティティの一部にしていた。

Twitter上では、このスタンスに対しても、少なくない批判が集まっている。

「料理にかけられた呪い」
「総菜をバカにしている」
「手作りにこだわっても意味ない」
「自分自身の古いスタンスを変えていかなきゃ」

私はこの動きに、ちょっと待って、と戸惑ってしまった。

総菜や時短料理は、もちろん「悪」ではない。
助けられている人がたくさんいるし、手作りと上下をつける権利など、他人にあるはずがない。

しかし、その「新しい考え」を歓迎するあまり、「家族のために手作りの料理をつくりたい、できたときは達成感や幸福感を感じる」という価値観が「古いから」という理由で糾弾されてしまうのは、ちょっとちがうのではないだろうか。

それは「今までつらかった人」を救済する代わりに、「新たなつらい人」を生み出す図式に、私には思えてしまったのだ。

「ズボラが最先端」の影に生きる人々

繰り返しになるが、現代に開発された便利なツールやテクニックを駆使して、家事の負担を減らすことは、まったく悪くないし、必要な人にはどんどん届いてほしい。
その結果、すごくラクになった!という声には、よかったな~と思う。

しかし世の中には、「手の込んだ料理をつくること」や「自分の手で掃除をすること」自体に喜びや楽しさをかんじる人もいる。

かつて、家事は「どれだけ手をかけたか、時間をかけたか」が大きな価値だった時代がある。

15時間かけておせちをつくった、すごいでしょ!
うちなんて20時間よ、勝ったわ!

という比較基準が存在し、この美学が全主婦に突き付けられることによって、ワーママは専業主婦より子どもを愛していないだとか、粉末出汁を使うのは怠けであるとか、一辺倒で本質的でない評価が横行した。

時短家事はそこで弱者になった主婦たちの救世主であったはずで、ライフスタイルに関係なく、主婦全体や男性も含めた家庭生活を営む人全体の利になるはずだった

が、なんだかそれがいきすぎて、「時短を受け入れられない人は旧体制を引きずっていて古臭い、賢くない」という、新たな差別構造が生まれている気がする。

実際に、ママ友の間でも「いかに手抜きをしたか」「いかに家事をしていないか」という話題はしやすいのに、「いかに手の込んだ料理をつくったか」「いかにこだわって家事をしているか」という話題は出しにくい。

自慢するつもりや、相手を見下す目的での発言は考えものだが、ひとつの事実として「時間があるときは昆布で出汁とるよ」と言うと、「そんなの粉末でいいよ~!無駄だよ~!」と、まだ出汁なんかとってんすか?という空気が流れたりもする。

時短の自由があるように、「手をかける自由」もあるはずなのに。

私は料理が好きで、疲れているときほど、朝パンを焼いたりすることで精神的に豊かになれるのだが、この話を人にすると、いいね~そうなんだ~という意見と同じくらいの頻度で、「パンなんて買えるし、その分寝てたほうが賢いよ、自分を追い込まないほうがいいよ」と進言される。

心配してくれる気持ちはありがたいのだが、「あらゆる時短技を駆使しないのは賢くない」というスタンプが、ちょっと悲しい。

誰かに「100%手作りじゃなきゃ認めない!」と押し付けられることがシンドイように、「全力時短が最先端!」という声もまた、手を込めることに喜びを感じる層を、強い力で押さえつけている。

ちょっとだらしなくすごした日の話や、すごく適当な家事をした日の話は、自虐的におどけて話しやすく、相手も笑ってくれるので楽しい。

自分で罪悪感を感じるよりも、他人に話してネタ的に消化するのはいいことだとも思う。

ただ、時には思いっきりこだわって頑張った日の話をしてもいいし、そんな日がなくてもいいので、「誰か」の昔ながらの家事やふりしぼった一日も、笑顔で聞き合いたい。

その時間の捻出こそが「時短テク」の本来の目的かもしれないな、と思っている。

女性に料理をして欲しい、は間違いなのか

ここからは夫婦間の家事について考えたい。

共働き化がすすんでいるが、依然として女性が家事の多くを担っている、という夫婦が多く、家事シェアをこころがけている夫婦でも、料理だけは妻がメイン担当、という家庭も多い。
ちなみに我が家もそうだ。

私の夫を含めて、「料理は妻にしてほしい」と考えている男性はまだまだ多数派のように感じる。

婚活市場でも、女性には年収よりも料理スキルを要求する男性が多く、実際に婚活パーティーでは「お料理は得意ですか?」とよく聞かれる。

私はこれに関して、特に問題はないと感じている。

「女性なら料理ができて当然」という、できない場合を否定しにいくことは乱暴だが、
多くの女性が男性に対して「収入が安定していてほしい、自分より稼いでいてほしい」と思うことと、大差ないと考えているからだ。

つまり、自分の苦手分野や弱みを補填してほしいのだ。

この発想はパートナーシップにおいてスタンダードであるし、「希望」として持っていることはまったく自由だ。

ただ、冒頭記事の夫のように「働く条件として家事負担を求める」は話が違うと思う。

「料理を手作りしてほしい」という要求は、夫側のものであるのに、それを叶えるための「努力」を妻に求めていることに問題がある。

自分の要求や目的のために努力をするのは、自分自身でなくてはスジが通らない。
アンバランスになってしまうし、対人での「礼儀」を欠いているように感じる。

「なるべく料理は妻にしてほしい」と思うならば、妻が料理可能になる、物理的な時間や環境の確保と、料理継続に必要なモチベーションの確保は、夫の役割なのだ。

相手への要求は、要求側の努力で実現させる

もともと料理が好きな妻ならば、すでにモチベーションはあるので、物理的な時間を確保するため、他の家事を担うなり、子供を連れだして料理に集中する空間を作るなり、環境設定だけで解決する。

我が家は夫に料理リクエストがあるときは「今夜もつ煮が食べたいから、もつ買ってくるし、娘と公園いくから、作ってくれない?」と提案してもらうようにしている。

そのときの状況によって、「買い物は私がするから、娘だけお願い~」や「いや~今日は肩こってるから、明日マッサージに行ってからでいい?」など、それぞれの負担度を話し合ってタスク分担を決める。

「もつ煮食べたい」という要求のために、努力を考え実行するのは夫であり、私は「無理のない範囲で協力する」のだ。

これを、「なんでもつ煮食べたいって言ってるのに作らないんだよ!」などと、全家事と育児を丸投げされた上で言われたのでは、なにそれ?と思うし、次回へのモチベーションも消滅する。

また、私が夫に「お風呂掃除してほしいな」と思うときには、夫が帰宅後にいつも行う洗濯物の整理を、風呂掃除中にしておく約束で「実行時間」を捻出し、「パパだと天井まで手が届くから助かるわ~終わったら、今夜は味付け玉子あるよ」などとモチベートする。

この時間の捻出、負担の調整、モチベーションのコントロールの中で、どの要素が相手にとって重要なのかを、経験を重ねて理解することが「夫婦になる」ということなのではないかな、と私は思っている。

「モチベーション」が重要な夫に対して「もっと稼いで」という要求がある妻は、仕事を頑張れるような言葉をかける努力をしたらいいし、

「負担の調整」が重要な妻に「もっとアイロンを丁寧にかけて」と要求がある夫は、アイロンにさける力が多くなるように、妻の家事負担から、どれかを自分で引き受ければいい。

肝心なのは「要求」に応えてもらえなかったときに、疑うべきは自分の「努力」が足りているのか、「努力の方向性」が相手にマッチしているのか、ということだ。

相手の道徳心や能力のせいにしてしまうと、幸せな事態にはなりにくいような気がしている。

「そんなこともできないのか」
「なんであなたはいつもそうなの」

繰り返されるその言葉は、こんなに人があふれる世の中で、結婚までしようと思った相手の人生を、圧迫してしまうかもしれない。

言いたくなる気持ちは、わかる。
そんなとき、ある。私も、あるよ。

しかしそこでシャットアウトしてしまわずに、じゃあどうしたら「この次」は変わるのか、お互いの要求を無理せず叶える、いまよりいい感じの未来になるのか、一緒に考えてくれる相手は、やはり目の前にしか、いないのだろう。

果てしなく遠いと思った「この次」は、「明日」のもう一つの名前なのかも、しれないのだから。


記:瀧波 和賀

cakesで育児コラムの連載がはじまりました^^

#家事 #夫婦 #家事分担 #育児 #パートナーシップ #家事シェア
#料理 #コラム #時短




子育てにおいて大恩あるディズニーに、感謝を伝えるべく課金しまくります。 サポートしてくださったあなたの気持ちは、私と共に鶴となり、ミッキーの元に馳せ参じることでしょう。めでたし。