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子供が3人。ケーキが2つ。さてどうわける?

これは私が「この人の考え方や視点、おもしろいなぁ」と感じた方に、よく聞いてみる質問だ。

子供3人に対して、同じ大きさのショートケーキが2つある。さて、どのように分けたら良いでしょうか?

先にお断りしておくと、これはトンチやなぞなぞの類いではなく、その人の価値観を知れたらいいなぁという設問なので、答えによっていいとか悪いとかを決めるようなことはない。

ただ、このケーキの分け方によって、回答者の「平等の捉え方」に少しふれることができる。

私は幼少期に、1つ年下の弟と、家庭内の扱いに大きな差があり、不平等さに憤怒して育ってきた経緯があるので、「平等」という概念を思考することが好きなのだ。

ご自身でも考えながら読み進めてくださると嬉しい。

最多の回答は「同じ重さ、または同じ面積に分ける」

200人くらいに聞いてみたんじゃないかと思うこのクエスチョンに、半数以上の人はこう答える。

つまり、2つのショートケーキを3の倍数になるようカットし、それぞれの皿に重さか面積が均一になるように分配する、という方法だ。

特にこだわりが強い方は、イチゴは部位によって甘さがちがうから、潰して液体にしてから均等に配る、という猛者もいた。

この答えを出す人にとっての「平等」とは、「均等に与えること」を指している。

義務教育の考え方に近い、日本人的な平等さであり、非常にスタンダードな考え方なので、する方もされる方も納得値が高く、もめごとが起こりにくい。

平和的で中庸を重んじる考え方だ。
私はこの「平等」を疑いなく選ぶことができる人の健全さに、大きく憧れるし、どのように切ったら真の平等なのか、と議論するのも楽しいものだ。

実際に回答した人はいないが、「もうひとつ同じケーキを買ってくる」という方法も、アプローチは異なるが、同じ「平等感」に基づいているのだろうと思う。

次に多い回答は「子供の状態を加味して配分する」

これもバリエーションはあるが、メジャーな回答だ。
一番多いのは、子供の年齢や席についた順など、なんらかのアドバンテージに対して多めの配分を行うという考え方。

年齢が高くカラダの大きな子供には多めに、であるとか、時間を守れなかった子供には少な目に、であるとか。

この発想がはじめに浮かぶ人は「説明のつく理由があるときのみ、物質の不平等は発生してよい」と考えているように感じる。

兄弟でおやつを分けるときやお年玉の金額が、年長者のほうが取り分が多い、という采配に納得感が強いのだろう。

少し切り口が異なるが、
「よりお腹が空いている子や、よりケーキが好物な子が多く食べる」という回答者も少数だがいた。

これは年齢や成果よりも、もっと抽象的な尺度で差をつける考え方だ。

興味深いことに、こう答えた方は全員が障害者支援業の従事経験があった。

その人らしく生きることができ、その人の得意が肯定されるように支援する、という考えが福祉の基本になっているので、数値には変換出来なくても、個人の内側にある「やりたい気持ち、好きな気持ち」と向き合いたい、という職業特性の現れなのかもしれない。

私はこの「平等」も、とても好きだ。

ゲーム性と偶発性を好む「平等」

私の夫もこのタイプなのだが、ジャンケンやくじ引きという偶発性の高いイベントや、腕相撲やしりとりなどの能力が反映されるゲームの勝者にケーキを与える、という考えのひとも一定数いる。

この方たちは根本的に「世の中、平等なことなんて存在しないよ」と思っており、欲しいものは与えられるよりも奪いにいきたい、行動的な思考がある。

つまり、何らかの行動の結果でほしいものが得られなかったときに納得感が強く、その「チャンス、参加権」に対して平等性を求めているのだ。

ジャンケンに参加する権利が平等にあったのだから、ケーキがもらえるかどうかはまぁ二の次、という優先順位になっている。

私はこの「平等」を愛する人は逆境に強く、しなやかや精神を持っている方が多いと感じている。
彼らは大胆で豪快で、人生の楽しみ方に長けているのだ。

刺激的なこの「平等」も、ワクワクできて面白い。

私なら、どう分ける?

私はこれまで、自分と同じ回答を持つ人物に1人しか出会っていない。
ちなみにそれは高校時代の恩師である。
多感な時期に、自分にとって重要な概念である「平等」をわかりあえる師につけたことは、とても大きな幸運だった。

私がイメージしやすい「平等」は、「自分のことを自分で決められる」という権利だ。
なのでケーキも、当事者である3人の子供が話し合って、どう分けるか決めればいい。と思っている。

他者の決めた分け方ではなく、どのような結末が自分たちらしくて、納得感と価値があるのか、それはその3人に決めさせてあげたいな、と感じるのだ。

この質問を考えるとき、ほとんどの方は名前もない架空の子供3人に「差をつけてはいけない、不平等はよくない」という正義感を持っている。

それは本当に正しく優しい気持ちで、私が子どもの親だったら、「うちの子のためにこんなに考えてくれてありがとう、粗末に扱わないでいてくれてありがとう!」と、温かい気持ちになるだろう。

しかし一方で、ケーキを食べる当事者は3人の子供であるのに、「自分だったらどのように分けてもらったら、不満がないだろう」と、自分の感受性が主体になった思考にもなっている。

「相手の立場にたつ」という表現が昔からあるが、同じ場所に立ったところで、見たものへの感想は個人でちがうはずだし、私が「相手の場所」に立っているその瞬間に、肝心の「相手」は中心地から追い出されてしまっているのでは?という疑問もある。

もちろん比喩表現であることは承知しているのだが、なんだか「相手の立場をとってしまう」のように感じるときも、たまにあるのだ。

冒頭に書いたように、正しい「平等」などありはしなくて、価値観の差に優劣もなく、誰かが損をしないように、と気をつける思考は美しい。

だからこそ、その「思いやり・配慮」がきちんと当事者の納得感に添えているか、確認しながらすすめていけたらいいのにな、と思う。

障害当事者の有名な言葉に「わたしたちのことを、わたしたちなしに決めないで」という一節がある。
どんな支援をすればこの人が幸せなのか、ではなく、本人がどんな支援を必要としているか、という視点が大切だよ、という戒めだ。

子供たちもその周囲の大人も、みんなで笑ってケーキを食べるヒントが、この言葉に託されているように、私は思えてならないのだった。


記:瀧波和賀

#コラム #エッセイ #平等 #障害支援 #当事者 #育児

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