ハート

産後クライシスで失うものと、新しい街

産前産後で夫への愛情が大きく減った、という女性の意見を多く聞く。
いわゆる産後クライシスだ。

妊娠する前は
「もし子供ができなかったら、生涯夫と二人の生活でもいいよね」と思っていたのに、

いざ子供が生まれてみると、今度は
「なんなら子供と二人での生活でもいっか」と主語が玉突きされた、という女性もいることだろう。

なぜそんなにも、母となることで夫への感情が変化してしまうのだろうか。

例に及んで完全な私論だが、
父となった男性、母となった女性、両者に心理面での問題がある、と私は考えている。

現代ママの「逃げ場のなさ」は、もっと重要視されるべき

産後うつ、孤育、ワンオペ育児…。
出産という大役を終え、幸せ絶頂にあるはずの女性が、どうにもハッピーになりきれない状況が、近年叫ばれている。

新生児育児が過酷であるのも、出産が母胎に与えるダメージも、事実ベースでは昔から変わらないはずなのに、新米ママを待ち受ける生活のしんどさは、肌感的には増加している

要因として、
ご近所さんや親族間での「集団育児」から核家族育児になったこと、
所得の減少による生活の圧迫感、
インターネット普及による情報過多、
子どもが減ったことによる、世間の子育て世帯への不寛容などなど、
「時代」によるものが大きい。

これらはいち個人やいち世帯でどうにかなったものではないが、「時代」のせいだけにしてしまうと、ゆとり教育を嘆くことと何も変わらないので、個人や世帯単位の問題を考えてみる。

まず、母親に負担がよる育児はツラい。
最近の発表では、共働き世帯は7割にのぼったらしいが、一方で、家事育児を積極的に行わない夫は7割もいる。

未満児育児は一瞬も目を離すことができず、身辺のお世話にもいちいち介助が必要なので、ワンオペだと24時間自分のペースで生活できない

あと30分寝ていたいな、
新しいパン屋さんだ、ちょっと寄ってみよう、
湯船にだまって5分つかりたい、
好きなテレビや本を誰にも邪魔されずに眺めたい…

この程度の「したいこと」が軒並み実行できなくなる。
自宅では家事を邪魔されはかどらず、外出すれば大量の子どもの荷物と見張られているような世間の視線。

さらに、相談する大人がいないので、細かな「決断しなくてはいけないこと」が24時間あたまの中を駆け巡っている

何時にごはんたべる?
子どもの服装、これで寒くないかな?
予防接種の予約しなきゃ…
ゴミ袋もうすく切れそうだっけ?
洗濯しなきゃ明日の天気は…

未経験の「親としての子どもの予定」を忘れないよう、家事が滞らないよう、頭のシンが常に緊張しているのだ。

「ひとりめ子育て」の見えない敵

初めての子供であれば、一度きりのイベントや、「はじめての〇〇」に対して、準備や記録、お祝いを怠ることは、母としての自己肯定感を大きく損なうような気持にもなる。

例えばハーフバースデイ。
生後半年のお祝いだが、これはハロウィン以上に新しい文化で、妊娠するまで知らなかった人も多いのではないだろうか。

馴染みのない文化なら、スルーしてもよさそうなものだが、
よその家庭は豪華にお祝いして、記念フォトも撮ったのに、うちの子は普段着でいつもと何も変わらない…という状況は、他人が想像するよりも、ずっと強く新米ママを揺さぶる

まるで「母親1年生が絶対やるべき100ヵ条」のようなむちゃくちゃな問題集を突き付けられているようだが、多くの母親が懸命にこの宿題に取り組んでしまう。

やらずにいられないのだ。
「自分のもとに生まれたことによって、不憫なおもいをさせたくない。他の子どもより得られる経験値や残る思い出が少ないなんてことは耐えられない!」という、愛情ゆえの恐怖心が、スーパーハイオクガソリンのように疲れた体をたきつける。

不思議なことに、このひっ迫感はふたりめ育児になると大抵おさまる。
子どもひとり、母ひとり。たった一度の0歳期間。
その不安こそがエンジンペダルなのかもしれない。

産後クライシスのはじまり

出産育児で疲労したカラダに、
終わらない宿題と選択で爆発しそうなアタマ。
そして、社会から離れアイデンティティが薄れて、消耗するココロ。

核家族の「主な登場人物」は「ママ、パパ、子」であるから、赤ちゃんに怒れない以上、ヘロヘロなママの不満や怒り、憤りは根こそぎパパに向かう。

選択の余地なく、限界状態に追い込まれたママには、「育児をする、しない」「妻を助ける、助けない」という選択肢を持っている夫が妬ましい
しかも自分が極限なので、「極限まで自分を追い込む」という選択をしなかった夫を許すことができない。

わかる。
いや、ほんとに。めちゃくちゃ、わかる。
同じ親なのに、自分は妊娠出産も担ったのに、夫ばかりいい思いをしているようで、恨めしくなってしまう。

茶碗を流しに下げない、靴下が裏返ったまま、リビングで寝落ちする。
産前は「もう、仕方ないわね~」で許せたことが、一気に極悪非道で絶対的に間違っている行いに感じる。

ひどい、許せない、信じられない、嫌い、キライ…

胸の中に、渦巻いたこともないような、大きな雲がゴゴゴゴゴッとあらわれ、「でも優しいとこあるし」「彼も疲れているから」をあっという間にのみこんでしまう。
荒れ狂うアラシが、大木をなぎ倒して家を砕くように、それまであった「わたしの穏やかな街」を復興不能な荒野に変える。

「大好き」を集めた図書館も、くつろいだカフェも、安らぎのマイホームも何もかも、意味のない大量のガレキになってしまった。

これが産クラ妻のココロの中である。
視覚的には見えないが、長年暮らした大好きな街を、失意のうちに失っている。

産後の妻に戸惑う夫

「子どもを産むと妻は変わる」と思っている男性は多い。
子どもにかまいっきりでオシャレもしなくなるし、俺には怒ってばっかりで嫌になっちゃうよ、なんてうそぶく人もいるだろう。

確かに産後妻は変わる。
でもそれは、妻が望んだ変化ではない

自然災害のような不可抗力により、あらがえない大きな力により、強制的に変わってしまったのだ。
「すべてを背負って手探りの中育児すること」という衝撃が、ジリジリ妻を蝕んだのだ。

夫にも子どもにも穏やかに接して、育児を楽しみ、仕事の疲れを癒したい、安らげる幸せな家庭を築き上げたい。
多くの妻は、妊娠中までそう思っているし、「自分たちなら大丈夫」とかんじてもいる。

だから悲しい。変わってしまった自分が悲しい。
もう一度、あの平和な街に戻りたい。
家族と笑顔で暮らしたい。
でももうないのだ、あの街は。嵐で壊れてしまったのだ。

そんなツラさや憤りを、夫にぶつける。
夫は戸惑うだろう、困るだろう。

いままで通り、いや赤ん坊が生まれた分も、いままで以上に仕事に励み、妻子のことも心配している。
育児の助けにもなりたいし、待望の子どもも可愛がっている。
これはいい父親ではないのか?家庭想いの夫じゃないのか?

「思っていたのとちがう」ことに、夫もまた大きく傷つく
そう、たいがいの夫もまた、家族で幸せに暮らしたいと願っているのだ。

しかし妻からみると、引き続き穏やかな夫の街が眩しくて悔しくてたまらない。

自分は迫りくる嵐を前に、大切な街に背を向けて、タオルにくるんだ子供だけを抱き、暗闇の中を走ったのに…

街が壊れる音を聞いても、泣きながら子供と逃げることしかできなかったあの無念が、夫の街の賑やかな飲み屋や呑気な公園を垣間見るたび、信じられない憎悪となって、またひとつ、激しいアラシを呼び起こす。

産後クライシスから抜け出すには

ふたりの温度差が広がる前に、どうしたの?と声をかけあえれば理想的だし、聞かれたほうも、自分のモヤモヤをうまく言語化して、相手に伝えることができればいいのだが、「頑張り屋の妻」と「真面目な夫」の組み合わせほど、気づいたときには妻の街は壊滅状態、ということが多い。

そんな産クラど真ん中の事態になったときは、やはりお互いの状況を認め合っていくしかない。

妻は夫の戸惑いに、自分の怒りをかぶせるのではなく受け入れる。
そのうえで、家事を分担してほしい、休日は子供を連れだして欲しいなど、夫に望む「努力」を具体的に伝える

間違ってはいけないのは、相手に望むのは「犠牲」ではなく「努力」であること。

自分と同じくらい苦しんでほしい、失ってほしい、傷ついてほしい。
その衝動は理解するが、そんなことを望む相手のためには頑張れないし、実現したところで、妻の持っている「ツラさ」は減らない
一瞬スッキリしたような錯覚にとらわれるが、そんなものはまやかしで、決して誰も救わない。

なので、どうすればあの嵐が収まるのか、「自分が我慢する」以外の方法で考えてみてほしい。
そうすることで、自分自身の本当の困り感とも向き合える。

自分がどんなにツラい最中にあっても、それは相手にツラく当たっていい理由にはならない。

夫もまた、楽しみにしていた「赤ちゃんのいる生活」が想像していなかったカタチになってしまい、戸惑っているのだ。

夫はグチャグチャになった妻の街を一緒に眺める。
「なんで家が壊れたの?」
「なんで道路が割れてるの?」と、

「今の妻の状況」を責めるのではなく、

「ここには立派な花壇があったね、手入れをするの大変だった?」
「車がたくさん走って活気があったよね、にぎやかで好きだったなぁ」と、

かつては当たり前すぎて特別に思わなかった「妻の良さ、努力」
もう一度言葉で伝えてあげてほしい。

産クラ真っただ中で、自分に対して攻撃的な妻の相手はシンドイだろう。
罵声や冷たい態度はこたえるだろう。

だけど、だけれども、それは妻のせいではないのだ。
避けられない大きな力で、大事なモノを失ってしまった結果なのだ。
そしてそれは、ふたりの子どもを守るためだった。

「寄り添う」というと、
寄り添われる人と寄り添う人の関係性が一方的に感じられるが、住み慣れた街を失い、肩を落とす妻のとなりに、そっと立ってみて欲しい。

そして、かつてそこにあったマイホームを思い出してみる。
一番日当たりのいい、心地いい特別な場所は「夫の部屋」だったはずなのだから。

落ち着いてきたら、まずは足元のガレキを1つ、片付ける。
絶望的にみえた街の状態も、夫がいると、驚くほどのスピードで片付くことに気づくだろう。

こんどはふたりで一緒に、あの場所はリビングにしよう、いや子ども部屋よ、と話しだしてみてほしい。

ふたりで笑いながら、新しい街に想いを馳せるその瞬間が、産後クライシスの終わりなのだから。


記:瀧波和賀

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