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編集者なら、もだえるような恋がしたい。

私が所属する「コノビー」は子育て系メディアだ。
複数のママ・パパライターさんに記事をご執筆いただいているが、私は専属の担当ライターさんを持っていなかった。

主にマーケティングを担当しているし、業務に不満はなかったのだが、9月のコンテンツ会議で、上司が雑談まじりに言った、「最近は新規ライターさん、とってないよね。何人か新しく声かけてみよっか」に「私にやらせてください!」と食い気味にかぶせた。

やはりずっと、ひっかかっていたのかもしれない。

日本人に生まれたのだから、お祝いの日は着物がきたい。
小学生になったなら、友達100人作りたい。
大学生になったなら、サークル飲みではしゃぎたい。
娘を生んだのだから、一緒に料理がしてみたい。
そんな感じで。

編集者になったのなら、担当ライターさんを持ちたかった。

いや、そう書いてしまうと、ちょっと語弊がある。
「担当ライターさんを持つこと」は、あくまでも手段だ。

本当の目的は、「恋」だった。

それも、コスモスの花びらを1枚1枚ちぎって占うような、いじらしく幼い恋ではなくて、ああどうしてあの人はあの人なのか…!と薔薇を素手でにぎり潰すような、激しく突きつめた恋。

ライターさんの原稿を前にして、もっと伝えるには、もっと際立たせるには、もっと受け入れられるには、一体どうしたらいいのか!?
ああ、自分にもっと力があったら良かったと、身もだえながら苦悩する、そんな「編集者としての恋」に、ずっと焼かれてみたかったのだ。

はじめまして、あなたのことが大好きです。

私はなかなかのタラシ編集者で、たいした経験もないくせに、組んでみたいライターさんはたくさんいた。
なので何度も「いますぐ、告白したいライターさんは誰だろう?」と考えた。

もしもお目にかかることができたなら、名乗るより先に愛を告げたい、そんな引力を感じているのは誰だろう。

たどり着いたのは、「癒しの化身」にくきゅうぷにおさんと、「多様性と感受性」のとけいまわりさんだった。

なんだか私が「選んだ」みたいな書き方になってしまったが、実際にはまったく逆で、「交渉させてもらえるかどうかを、まず拝み倒す」からのスタート。

とても前のめりで、圧の強いお願いだったと感じている。
なぜならこれは、「恋」だからだ。

憧れの先輩の登校姿を、教室の窓からのぞいて待ち焦がれながらも、その一挙手一投足を細かくに手帳にしたためるような、執拗でエネルギッシュでまごまごしい、本気の初恋だった。

「はじめまして」のメールを送るとき、とても緊張した。
もう送ってしまって覆せないものを、何度も何度も読み直しては、返事はまだかとタメ息をつく。
恋はいつだって、惚れたほうの負けなのだ。

なお素晴らしき、わたしの想い人

我ながらに、たいへん暑苦しいアプローチであったのだが、おふたりのたぐいまれな人間性により、この企画は実現した。

コノビーデビュー記事が世の中に出るまでのあいだに、私の願いは叶った。

おふたりの原稿を前に、なんて素晴らしいんだ!でも、もっとだ!もっともっとこの記事が伝えたいものを、読者に届けるにはどうしたらいいんだ~!!と、私はもだえて苦悩していた。

特にとけいまわりさんの記事は、コラムなので、何度も何度も要素を整理し、構成を考え、改行をやり直して、読み込んだ。

この記事を世界で一番読んでいるのは、絶対に私だ。この先も抜かれる心配はないだろう。

この話には、大きな軸が2本ある。

お友達のショックな発言に対して、長女ちゃんが何を思い、どのようにリアクションしたのか、というエピソードの力と、我が子の窮地を目の前で目撃してしまったとけいまわりさんが、ご自分の感情と、長女ちゃんの感性との間に、着地点を探す心理描写だ。

一般的に要素を増やさないほうがいいといわれるショートコラムで、なかなか詰め込んだ内容なのだが、この2軸を分離して考えてしまうからこそ、多くの「子育て論」は親を追い込んでしまう。

「子供のための理想行動」と「人間である親が実行できる行動」には乖離がある。

とけいまわりさんは、この矛盾点を具体的には書かず、責めもせず、開き直りもせずに、サラッとエピソードに溶かすことができる。

なので読んだ人に余韻を残す。
すでにTwitterで累計4000いいね以上ついている理由はココだ。

「これはつまり、こうゆうことだな」「これを読んで、こんなことを思い出した」のように、とけいまわりさんの記事は語りたくなるコンテンツなのだ。

TVドラマの『アンナチュラル』やジブリの『風立ちぬ』に近いバランスで、揺さぶられるエピソードなのに、確信を込めた総括の文がない。
もちろん作者の中に答えはある。あえて、書いていないのだ。

私自身は書き切るタイプのライティングをするので、当初、とけいまわりさんにも、締めの一文を追加する提案もしたが、この終わり方をご希望された。

ゆがんでいると思われそうだが、私はその返信で、またひとつ、グッと恋が深まったように感じている。

この余白を残すという選択が、とけいまわりさんというライターの魅力なのだと、確信できた。
ああ、好きだな、とさらに酔わせてもらったのだ。

未読の方は、是非こちらから遊びにきてほしい。

君が好きだと、叫びたい

にくきゅうぷにおさんの記事の凄まじいところは、頭の中を「スキ!」でいっぱいにしてくれることだ。

ぷにおさんのイラストは、そのすべてが、むちゃくちゃカワイイ。

癒される。スキ。触りたい。ずっと見てられる。尊い。スキ!!
こんな感想ばかりが脳内をかけめぐる。

それだけ?と思うかもしれない。
だが、ストーリーやメッセージの宿るコンテンツにおいて、「もうなんでもいいから好きだよ、可愛いよ!」と言わせることは、実はハードルが高いのだ。

大人は子供のように、物事を額面通りに受け取ることができない。
相手の発言や行動のウラにあるのかもしれない「真意」を探して目を細める。

コンテンツにも似たような現象はおきる。

カワイイエピソード、ほっこりする発言などをマンガや文章でみても、その裏にいる作者の気配を感じて、「あざといな」や「親ばかすぎない?」という批判めいた気持ちが生まれることがある。

別に読み手が意地悪なわけではなく、自分の状態が窮屈なときや苦しいとき、人はそうして他人の「悪」を見出したくなる。
「善」を疑ってかかりたくなるのだ。

しかし、にくきゅうぷにおさんの漫画にはそれがない。
どんな時に読んでも、深読みする隙なく、めちゃくちゃかわいい。

私は実証するために、脂汗が出るような腹痛でトイレにこもっている瞬間と、3時間かかった寝かしつけの後の、すさんだ心でも彼女のコンテンツを読んでみたが、やはり可愛く、癒された。

理由は簡単で、それだけ画力と構成力が高いのだ。

読者に邪推する暇を与えないくらい、作品本来の世界観に集中させる、という技術を、にくきゅうぷにおさんは持っている。

不意に追い込まれることが日常の育児砂漠に、彼女の作品が必要だと、私は心から思っている。

なのでちょっと余裕がない日も、安心してクリックしにきてほしい。癒されるので。

永遠の片思いに、もだえたい

いま私の手元には、まだみなさんに届いていない、新しい原稿がある。
はっきり言って、めちゃくちゃいい。

またもや、胸も頭も全身焼かれるおもいで、悶えながら編集している。

私のリアルな初恋は中学生の時だったけれど、あの頃の初々しくて脆い心を、厳密に思い出すことは、もうできない。

既婚者なので、大人としての恋愛も、する予定は今後ない。

だから今、この素晴らしい片思いを、同時に2つも手にしていることが、なんと幸運で、至極贅沢なのだろうと身震いする。

担当させていただくまでも、ずっと好きだった人に、ずっともっと、恋がしたい。
一直線に焦れたい。

置いていかれないように、技術と経験を手掴みにして、背中のリュックに放り投げていく。

両手は空いてなくてはいけない。
憧れの原稿の、第一読者になる贅沢を、いかなるときも、逃さぬように、両手を広げて、走っていたい。

いま、恋をしている。
きっと人生の、どんな瞬間よりも。

記:瀧波 和賀

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