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霞はもう、食べあきたんじゃ。

優しい、怒りっぽい、頼もしい、情け深い。
人の性格を言語化するときには、おもに形容詞が使用される。

しかしながら、ある人物へのイメージや印象を、特定の定型文で表現する場合も、しばしばある。

たとえば、菩薩のように優しげな人には「虫も殺さぬよう」。
素直すぎて疑いの心を持たない人には「へんな壺とか買わされそう」などと言う。

そしてこのような定型文の中でも、ここ10年くらいで頻発されるようになったのが「霞(かすみ)食って生きてそう」だ。

これは、山奥にくらす仙人は、食物ではなく、モヤのように漂う霞を摂取するだけで生命を維持できる、という俗説から派生した例えである。

つまるところ、「禁欲的で、どこか達観した佇まいがあり、人間離れした思想や実績をもっている人」を指している。

寡黙で謎めいたクリエイターとか、
厳かな武道の達人とか、
長年善意の無益活動を継続している人などだ。

具体的にあげると、マザーテレサやガンジー、ダンブルドア校長のような人物だが、そこまでのレベル感でなくても、「凡人よりやや仙人よりな人」に対して、なかなか気軽に用いられている。

きっと、誕生時には洒落っ気があり独創的な表現であったはずのこの定型文が、耳タコとなったいま、私はひっそり思うのであった。

いくら仙人でも、そろそろ霞、食べ飽きたんじゃないのかな、と。

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仙人の食生活を考える

いくら禁欲的なライフスタイルであっても、さすがに霞ばかり毎食はしんどそうなので、「仙人ぽい人」を形容する、別表現を考えてみたい。

食欲にしぼった視点をひきつぐなら、肉や魚は論外だろうし、一般人にもベジタリアンはたくさんいる。

なので、霞に倣った、森羅万象にまつわる何かであれば、仙人感を残せるはずだ。

星の瞬き
小川のせせらぎ
雨上がりの土の香り

あたりだろうか。
いずれも物質的な質量がないので、霞よりもさらに仙人レベルがあがったようにも思う。

霞はいわゆる水蒸気なので、強引にいえば水を飲んでいるわけだ。

しかし、五感で感じる豊かさによって命をつないでいるとなれば、ますますその他の俗物と区別できそうである。

ためしに会話例を考えてみる。

「Aさんって、20年越しの研究でとった◯◯賞の賞金を、全額寄付したらしいよ、これからの科学のために」

「ひえ〜!それは星の瞬きを食べて生きてるような人だねぇ〜!」

うんうん、なんかいい気がする。
ヒトを卓越した何かを感じる言葉だ。

「Bくんはほんと優しいよね、みんなをサポートしてくれるのに見返りは求めないし、偉ぶらないし」

「ほんとだよね、怒ったとこも見たことないよ。あれはもう小川のせせらぎで満腹になるタイプの人でしょ」

おお、いい!
あぐらで霞を吸い込む旧イメージよりも、目を閉じて川の音に耳を傾ける映像が浮かぶことで、ロハス感というか、よりヘルシーな人物像を彷彿とさせる。

そして、ここまで考えていて気がついた。

いままで「霞食って生きてそう」とひとまとめにされていた人たちの中にも、2つの種類が存在しているのだ。

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「仙人ぽい人」にもタイプがある

身近な「霞食ってそうな人々」を思い浮かべてほしい。
彼ら彼女らの性質や性格は、決して1種類ではないのではないだろうか。

まず代表的なのが「常人では達成できないストイックさの持ち主」タイプ。
キングカズやイチローのような、強力な自制心の持ち主で、サボりや妥協の誘惑に負けない人を指している。

その禁欲性から、日常生活が想像できないので、仙人認定がされがちである。
アスリートや研究者、文筆家など、1つの分野に特化していることが多い。

圧倒的な実力が伴っているので、「なに食ったらそんなことになんねん」という畏怖から、霞食ってそう、表現されるのだ。

次に、「ミステリアスでつかみどころのない人物」タイプ。
浮世離れした雰囲気や、一風変わった価値観をもち、なおかつ他人からの評価や理解を求めていない。

出世競争や承認欲求から解放されているようにみえるため、この人たちも霞が主食だと思われがちだ。
アーティストやクリエイターに多く、自分の過去や感情などを積極的に語らない傾向がある。

私生活が謎めいているので、もう霞でも食ってんじゃないかなと、「よくわからない人だ」の意味合いで形容されているのだ。

どちらのタイプの「霞食ってそうな人」も知り合いにいるが、ストイック型の人は、霞よりも太陽の輝きや大地の響きのような、エネルギッシュな現象を食べていそうだし、ミステリアス型の人は、水面の揺らぎや木々のささやきのような、神秘的な瞬間を好みそうだ。

分類して考えてみると、1つの表現にまとめることは乱暴に感じるほどに異なる属性なのに、「みんなに伝わるおなじみの言葉」に集約すると、とたんに個性が軽くなってしまう。

「霞食って生きてそう」は多くの人にイメージが共有しやすい便利さがある反面、その人がどんな風に仙人ぽくて、どんな雰囲気をもっているのか、細部ディティールを語る機会を奪ってもいるんじゃなかろうか。

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伝わりやすさと思考のパターン化

このような現象は、あらゆる言葉に紐づいている。
他人の悩みを聞いたとき、反射的に「難しい問題だよね」と言ってしまったり、名前のつきにくい感情を抱いたときに「モヤモヤしてる」に集約してしまうことだ。

もちろん、それで問題がない場面も多々あるのだが、耳なじみのいい言葉に安易にカテゴライズしてしまうことで、本当の問題を掘り下げることができず、困りが解決されないこともある。

伝わりやすさをインスタントに選択することで、問題そのものが大きな枠の中に納まったように錯覚してしまい、思考がパターン化するのだ。

せっかく感性が働いて、「なんだかヒトとちがう、すごい人だな」と思ったのに、考えを掘り下げてぴったりくる表現を探すまえに「霞食ってそうな人」とまとめてしまうのは、ちょっと勿体ない気もする。

そうして多様される形容表現は、どんどん手垢がつき、派生して意味あいも広がっていくのが常である。

まだまとまっていない考えを、便利な表現に変えるときには、ほんとにそれでいい?ニュアンスや意味合いは適切なの?と自分の中に、疑問の声をもっていたい。

言葉は他者に伝えるためのツールではあるけれど、仙人だって、いつか霞は食べ飽きるのだし、定型文の力に頼らない決断が、ちょっといい人生の秘訣かもしれない。

あの仙人、今日はなにを食べているかな。
そもそも1日3回食べるのかな。
霞にあきて、箸でツンツンもてあましてるかも。

そう考えている時間は、とくになにも生まないけれど、無駄なことかもしれないけれど、「霞食って生きてそう」だけで終わっていたときよりも、ふふっとなれるときもある。

日本全国、どこのスーパーでも売っている、ありふれたスナック菓子を食べながら、どこかの山深い清らかな場所を思っているのだった。


記:瀧波 わか

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