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あした、妊婦さんと会えたなら。

お腹の大きな妊婦さんと話すとき、以前はよく「わー!楽しみですねー!!」と言っていた。

もうお腹も大きいので「おめでとうございます」もなんだかタイムラグがあるような気がするし、
予定日や性別を聞く前のアイスブレイクにもなり、子どもを持たない時点の私が考える、最大にポジティブでイケている声かけだったのだ。

ただ、少し引っかかっていたのは、
私に「楽しみですね!」と言われた妊婦さんたちは、誰一人として「そうー!ほんとに楽しみー!」と100%の同意を示さなかった。

少し困ったように「ん~そうねぇ…楽しみだね」とほほ笑んだり、「まぁ、そうだねぇ」と答えを濁した。

あれ?と思いつつも、私はその反応を謙遜に近い何かだと当てこんでいて、控え目な微笑の意味をまったくわかっていなかった。

自分が妊娠したことで、はじめて知った世界

私が自分の妊娠に気づいたのは、超初期の4週目くらいだったと思う。
そんな早期になぜ気づいたかと言うと、子宮が痛み婦人科を受診したからだ。

その婦人科では、前回の生理日から1か月空いていなかったので、妊娠判定の検査はされず「ストレスによる腹痛」とはじめから決めてかかるような態度だった。
あまりに「それは子宮の痛みではないと思う」と医師に連呼されたので、私も強く言い返すことができず、言われるがまま腹部のレントゲンを撮ってしまった。

薬を処方され帰宅したあと、どうにも納得がいかず、薬を飲む前に市販の妊娠検査薬を試したところ、うっすらだが陽性反応が出たのだった。

私はこの「はじめての妊娠を知った瞬間」に喜びよりも不安と後悔がドッと押し寄せた。

なぜレントゲン検査を固辞できなかったのか、
なぜ先週、アルコールと風邪薬を飲んでしまったのか。

妊娠を希望していただけに、「万全の状態での妊娠開始」にならなかったことで、大きく動揺し、すでに取り返しのつかないミスをしてしまったような罪悪感と、胎児に何かあったら…という心配でいてもたってもいられなかった。

「嬉しい!やった!」を「どうしようどうしよう」が上から押さえ込んでボコボコに叩いているような心境だったのだ。
大雑把で前向きな私はどこかに引っ越して、急に神経質な住人と入れ替わったかのようだった。

そんなに心配したって、レントゲンや薬の摂取はなかったことにならないし、何か問題があるって決まってないし、どのみち生んでみないとわからないのだから、そんなに神経質になってもいい影響はない。

そんなことはわかっているのだ。
わかりきっていても、まだ数ミリの胎児であっても、もうすでに心配で心配でたまらない。「完璧な妊婦」からはやくも外れた自分が悔しい。

この、「見えない胎児を宿す不安」と、失敗は許されないという、「命を扱う緊張感」を自分が妊娠するまで、私は想像することもできなかった。

妊娠経過は、ほんとにそれぞれ。

つわりもなく、胎児の経過も順調で、特に健康上の問題なく出産まで行く方もいれば、
水も飲めないような重度つわりと経過不慮や多児妊娠により、長期入院で妊婦期間をすごす方もいる。
ちなみに私は後者だった。

妊娠中の体調やマイナートラブルの度合いはほんとうに十人十色で、「妊娠」の中身がこんなに広くて多様だなんて思わなかった。
妊娠前に思っていたふり幅の軽く10倍は広大な世界だったのだ。

どんなに本やネットで事前情報を集めていても、どこにも「リアルな妊娠」は存在していなかった

だから知らなかったのだ。

妊婦健診が待ち遠しく、エコー画像をニヤニヤ眺めてしまう気持ちも、
食事や姿勢の制限をひたすらストレスに感じることも、
医師の「順調です」に破顔してしまう安堵も、
健診費用が高額で、明細表を凝視してしまうことも、
ベビー用品店に「お客」として足を踏み入れる幸福も、

私は全然知らなかった。

赤ちゃんに会える日が、もう楽しみで楽しみで、
はやく顔がみたくって、
ワクワクドキドキしながらも、

「出産が怖い」その思いが、
ずっと胸のどこかに住んでいて、チラつくたびに大きく不安になることも。

私はほんとに、全然わかっていなかった。

赤ちゃんが楽しみ。だけど出産は恐ろしい。

「ご懐妊」という言葉があるように、妊娠することは、おめでたく尊い。
親類、友人、ちょっとした知り合いまで、みんなが喜んでくれる、最高にハッピーな出来事だ。
新しい命の芽生えを祝い、誕生を心待ちにする。

その事実に疑いはないが、だからこそ、胎児を宿している「妊婦さん」が弱音を吐きにくい状況が、うっすらあるのではないか、と気になってもいる。

妊娠は幸せだ。
でも不安で怖い。すっごく怖い。

薬やアルコールの摂取を悔んだり、障害などのリスクを心配したり、体調不良に悩んだり、そしてシンプルに「出産」が怖い

私は武道をしていたし、痛みに強いという自負があった。
しかも夫のすすめで無痛分娩を予定していたので、「陣痛の痛み」への恐れは比較的弱かったかもしれない。

でも怖かった。
8カ月頃からどんどん大きくなるお腹をながめ、力強い胎動を感じては、
この大きな生命体をひねり出すなんて、ほんとに可能なんだろうか…?
と出産が恐ろしく、なにぶん経験もないので、その全貌の見えなさがますます不安を煽った。

だけどなぜだろう。
「出産が怖い。怖くて怖くてたまらない。だって死んでしまう人もいるのよ…!」と、心に時折おしよせる恐怖を、口に出すことがはばかられた。

「楽しみだな~!楽しみだな~~!」と嬉しそうにお腹を撫でて繰り返す夫に、「ほんとだね…楽しみだよね…」とこわばった笑顔でこたえたとき、私は思い出したのだ。
いつかの妊婦さんたちの、100%じゃなかったほほ笑みを。

どうして妊娠中の不安は言いにくいのだろう

もちろん言いにくさを感じずに、上手に言葉にできる方もいるはずだ。
少し強引で恐縮だが、私のように、いくらかみえない抵抗を感じた方もいるのかも、という前提で書いてみたい。

私はまず、いい大人が「出産を怖がること」が幼くて頼りない行為のように感じていた
妊娠が順調に続けば、出産の日がくることは当たり前なのだから、それを妊娠してから怖がるだなんて、小さな子どもがダダをこねるようで、笑われてしまうような気がしていたのだ。

「これから親になるのに、そんなことで大丈夫?」と笑われたら恥ずかしい。そんな弱い母親では心配だと、お腹の子の未来が案じられるのはイヤだ…。そんな見栄が確かにあった。

そしてまた、赤ちゃんの誕生を心待ちにしている周囲の気持ちに、水を差してしまうようで気が引けた。
楽しみ楽しみ!はやく会いたい!と口々に話す彼らの輪。
その中心にいる「母体な自分」は、そうよそうよ!もちろんそうよ!と誰よりもテンション高く幸せそうにしていなくてはいけないように感じていた。

「堂々と幸せそうな妊婦」の役を、無理に演じてしまっていたのだ。

唯一夫には、実は出産が怖い気持ちもある…と伝えたことがあったが、彼はそうかそうかそうだよね、と聞いてくれつつも、生まれた後の子どもの話をするほうが断然楽しそうだったので、何度も言うのはやはりためらわれた。

妊娠中の主役は「胎児」だ。
みんなが祝って心待ちにしているのは、まだ見ぬ小さい命であって、妊娠している私ではない。
主役ではない私に、インタビューマイクが向くことはなかった。

たとえ不安や恐怖を吐露していても、出産の痛みは誰ともわかちあえない。
陣痛も、いきみのがしも、分娩も、後陣痛もなにもかも、自分の力で乗り切らなくてはいけない。

誰かが悪いわけではなし、責める気持ちもありはしない。
ただ、その現実が、悲しかった。

「出産が怖かった自分」を掬い取ってあげられた日

結局わたしは、「出産怖いモヤモヤ」を完全には表に出すことなく出産を終えた。
誰もがそうしていると思っていたし、正しい振る舞いだと思ってもいた。

産後半年がたち、出産の痛みや産後の寝不足の記憶が少し遠ざかった頃、臨月直前の友人が遊びに来てくれたことがあった。

妊婦なんだからそっちまで行くよ、といっても、いいのいいの!たくさん歩きたいし!!とパワフルに押し切った彼女は、とても強く生命力にあふれていた。

早産だった私には未経験の、大きなお腹で現れた彼女は快活で、陣痛がくるまでに映画がみたい、パンケーキが食べたいと妊娠生活の希望を示した。

私は感動していた。
自分とは大違いだと思い、彼女への賛辞を最大限に表現したかったので、「私なんてお腹が大きくなるにつれて、出産怖いなって思いも大きくなっちゃって、でもダサい気がして口に出すこともあんまりできなかったよ。」と会話の中で口にした。

彼女はそっか~とか言いつつ、その場ではすぐに別の話題になったような気がするのだが、その日の夜に電話をかけてきてくれた。

友人は電話口で泣きながら、
出産が怖い出産が怖い…どんなに痛いか、無事にやり遂げられるかわからない、出産が怖い…と繰り返した。

ココロ、じゃなくて心臓が、グッと強い圧力を感じて、私の泉に波を立てる。

胸が熱かった。
出産は怖い。怖くていいと許された、過去の私が癒されて、
今まさに恐怖の中にいる彼女が心配だった。

2つの感情がまったく同時に、ビュンッとするどく、ヒカリの道を作っていき、ほこりをかぶった暗い廊下の輪郭が、くっきりしてくるように言葉が溢れた。

怖いよね?怖いよ、そんなん、絶対怖いよ。
教えてくれて、ありがとう…。

語彙などいまは、意味がない。
ひたすらに、その恐怖と孤独を唱え続ける作業こそが必要だったのだ。

妊婦さんの数だけ妊娠経過が存在して、また妊婦さんの数だけ、出産のストーリーはちがう。
これらはドラマチックで語られやすい。

なぜなら感情よりも「事実」を抽出するほうが、断然手軽で伝わりやすいからだ。

だけどここに残しておきたい。
どんなに望んだ妊娠で、どんなに胎児が愛おしくても、「出産」という未知の行為は恐ろしい。
圧倒的に恐ろしい。私は、そうだった。

そして「幸せな妊婦」に似つかわしくないこの感情を、同士と認め合うことで、大きな安堵を手にいれた

出産は怖い。
でもその恐怖に飛び込んででも、子どもを望んだ私たちは、弱くないしダメじゃない。
同じ想いで戦う人が、確かにいる。

決して全員がそうじゃない。
もしかしたら絶対数は少ないのかもしれない。
それも承知したうえで、また正直に話してみたい。

「私は出産が怖かった。でも言い出せなくてモヤモヤしてた。」

こんどは笑われたって、バカにされたってかまわない。
100人にひとりでも、1000人にひとりでも、「ああこの人も同じなんだ」とひっそり安心できる人がいるかもしれない。

「私も!」と教えてくれなくてもいいし、感謝もされたいなんて思わない。
何もかえってこなくていいから、あの安堵感を伝えられるチャンスがあるなら、何度でも話してみたい。

そう。
あした、妊婦さんに会えたなら。

記:瀧波和賀

#育児 #コラム #妊娠 #出産 #妊婦

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