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個性と普通とオヤゴコロ

親になると、大概の人は我が子にいくつか願いを託す。

健康で元気に暮らしてほしい。
明るく誰からも好かれる人であってほしい。
好きなものや夢中になれるものをみつけてほしい。
苦労の少ない、順風満帆な人生であってほしい。

他の人にはない、その子だけの強みや特技、「個性」という名の武器を持ってほしいと望む。
ごく自然なことだ。

そのほうが人生が楽しくて、夢中になれるもの、この道だと確信できるものがある人間は輝いていてたくましいと、経験上知っているからだ。

しかし一方では、同級生から大きく遅れることなく、平均値を下回らずに成長してほしい、興味や能力に偏りがでるよりも、まんべんなく一般的な傾向を網羅し、「普通」であってほしいとも望んでいる。
矛盾しているようでいて、こちらもごく自然なことなのだ。

その子の個性を生かしたい、自分らしさに誇りをもって欲しいと願いながらも、同時に「普通」との差分が激しく気になる。

1歳ではなにができるのが普通なの?
いつまでに歩かないと遅いの?話すのはいつから?
検索したことのない親がいるだろうか。

なんども言うが自然なことなのだ。
子供を経て大人になっている私たちは、人生のルートが「標準」から外れることで、この世界でどれほど生きにくいのかも知っている。

勉強ができないと学校はつまらないし、運動が苦手だとバカにされることがあるし、学校を卒業しないと社会に参加しにくいし、コミュニケーションが苦痛だと多くの職場で苦労がある。

大なり小なり、私たちはそんな経験をしてきているので、我が子がどこでも居心地の悪い体験をしなくて済むように、「普通」を満たしたうえで、さらに「個性」があるといいなと、勝手ながらに祈ってしまう。

「普通」は大事じゃない。でも切実だ。

コノビーでとけいまわりさんの2本目の記事が公開になった。
私は企画・編集を担当させてもらっている。

1年生だった長女ちゃんが、左右ちがう種類の靴下を学校にはいていきたいと主張し、周囲に笑われたりからかわれたりして、本人が嫌な想いをするのでは…と心配したとけいまわりさんが、説得を試みるお話だ。

この記事には、かつて「ちょっとかわった子」だったというとけいまわりさんの、ほろ苦い思い出もつまっている。
全部を満点で終えられるわけのない学生時代を経た親が、子供に同じ轍をふませないように葛藤する心が主題だ。

私はこの初稿をもらったとき、とても嬉しかった。

普段のツイートでは3姉妹の発言や考え方を尊重し、あまり母であるご自身の昔話などは語らないとけいまわりさんが、コノビーの読者であるママたちに向け、視点を工夫して書いてくださったことが伝わったからだ。

「普通の波」という秀逸な比喩も出てくるが、とけいまわりさんが肝心な描写を比喩表現することも珍しい。
まさに、コノビーに書き下ろしてくださった一本だなと感じている。

想いが高すぎて編集の話ばかりしてしまった。本題に戻す。
この記事が示唆しているのは、まさに「普通」という在り方の厄介さなのだ。

子供は無垢で知見ストックが少ない。
大人のようにあからさまに差別することはなくても、ちょっと奇妙なものや「普通じゃないもの」に正直だ。

なんでそうなの?ヘンなの。アハハ。
決して貶めたいわけではないのだが、柄違いの靴下へのリアクションは、なにかしら起こってしまうだろう。

ただ左右そろいの靴下をはいていさえすれば回避できるやり取りを、親が甘んじて受け入れたくないのは当然だ。
さて、靴下問題で意見がくいちがった親子は、どんな結論を出したのか。

親の過去と葛藤。
子供への愛、心配、期待、加護、信頼。
この記事には、育児に必要なものが、たくさんある。
ぜひご一読いただきたい。

「よその子と比べない」なんて、できないよ。

私の娘はまだ2歳半なので、学齢期ならではの困難は未経験だが、おチビを育てていても、「個性」と「普通」はいつだって悩みの種だ。

娘は10ヶ月で歩いた。はやいほうだろう。
それだけで、よっしゃ!他の子よりすぐれてる!なんて思わないが、安心したし悪い気はしなかった。

同時に、1歳半をすぎても歩かない…と落ち込む親御さんの前で「はやいと手がかかるから、それはそれで大変よ」などと断じて口走らないように気もつかった。
事実ではあるが、焦っている人に聞かせたい内容ではない。

はじめての子育てでは、親も加減がわからず日々をすごしているので、これであってるかな?大丈夫かな?問題ないかな?を確認したくなる。
なにか良くない点があれば、即座に改善してベストを尽くしたいと、みんな思っている。

その基準は周囲の子供や育児書の発達目安表になる。
そこから遅れていれば不安になるし、先取りならばホッとする。

それは我が子が優秀そうだからでも劣っていそうだからでもなく、単純に「ちゃんと親をやれているかの指針」だからだ。

落ち着いて考えると、親の働きかけではどうにもならない、子供本人の気分と資質による影響が大半なのだが、なにせ話しもしない相手を1日中介護のような状態でお世話をしていると、自分の手腕しだいで成長の速度が変化するような気がしてくる。

低月齢児の親は、他児と比べて我が子の能力を判断したいのではなく、自分自身の合格ラインをさぐってしまうのだ。
そのため、よその子と比べないなど無理である。

自分の不出来によって我が子にワリをくわせないために、逐一比べてしまう。
これもまた、自然なオヤゴコロではないだろうか。

そこに「よその子と比べないで、その子本人と向き合って!」など言われてしまうと、重ねてよくない親だと言われてしまったようで苦しい。

「あの子はできてるから、あなたももっと頑張りなさい」と一辺倒に要求してはいけないが、親自身の判断基準、安心材料、危機察知手段としての「比べる」は苦しくない程度にしてよいものだと、私は思う。

少なくとも、比べずにいられない自分を責めることはない。
それだけ、慎重に我が子の健やかな人生を案じているということなのだ。

本当は、「普通」なんて範囲がなくなって、それぞれにちがう良さがあって上下なんかないんだと、世の中の人みんながおもえれば、「個性」という言葉すらも必要なくなる。

生まれたときにもらう名前こそが、それぞれの「個性」の代名詞であり、「普通」の定義だと、いつか根付く日がくるだろうか。

娘には教えたい。
象の鼻がながいと言えば、私たちの鼻が短いだけかもと示唆し、変な服の人がいると指をさしたら、私たちよりたくさんの種類の服を知ってる人だねと伝えたい。

普通からはみ出さない個性なんかを追いかけずに、自分の「普通」が誰かにとっては個性的かもしてなくて、でもだからって、仲良くなれないわけじゃない。

肝心なのは、自分の「普通」と同じくらい、相手の「普通」を大事にすること。
そうすればきっと、面白くて個性的な人生が、彼女を待っているような気がする。
そんな未来を、オヤゴコロで願っているのだ。
30年後、娘がいまの私の年に、なる頃までには。

記:瀧波 和賀

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