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手のひらに、きみを刻む。

娘が2歳になった。
新生児だった娘とすごしていた時、いずれはこの小さな命が、歩き、はなし、意思をもったひとりの人間として、この世界に参加する日がくるなんて、そんなのウソみたいだと思っていた。

もちろん知識としては知っている。
生きていけば、身体も脳も成長して、新生児から赤ちゃんに、赤ちゃんから幼児に、そして少女になり大人と同じ大きさにもなるはずだ。

「子供の成長は速い」
「赤ちゃんの時期なんてあっという間」

年長者にそう言われるたび、実際に赤ちゃんを抱く私は思った。
「そんなことないよ。毎日すごく大変だし、娘は明日も来月も半年後も、まだまだしばらく赤ちゃんだよ。」

話さず、大人の都合を無視した生活リズムを貫く赤ちゃんとすごす時間は、24時間めまぐるしい一方で、1週間がいたずらに長い。
1日の境目があいまいで、さしたる予定もないので、2か月、3ヶ月、と月誕生日がくるたびに「やっと1か月たった」と、弛緩なのか疲労なのか、よくわからない脱力を感じたものだった。

しかし、娘が2歳になった今、驚くべきことだが、
「いつの間に、こんなに大きく成長したのだろう」と、その過程を、つくづく思いだすことができないのだ。

瞼をあけることも精いっぱいで、自分の手足さえも自由に動かせなかった、か弱い姿も、よろよろと立ち上がり、草を踏んだふるえる足も、脳内言語と写真の情報では残しているのに、
まさにその瞬間の、娘のおもさ、あつみ、におい、筋肉のうごき、声のたかさ、影の濃さ…。

「存在そのもの」をリアルに思い出すことができない。
毎日少しずつ、植物の成長よりもささやかに伸びてきた全身は、いつのまに「赤ちゃん」を脱ぎ捨てたのだろう。
喜ばしくも、すこし、寂しい。

映像以外に、過ぎ去った娘を記録しているものはないのだろうか。
一種の喪失感のなかで考えたとき、ふいに思い至った。

そうだ、娘の「あのころ」と「成長の段階」を一番覚えているのは、私自身の「手のひら」だ。

湿っていた、きみ。頬。

生まれたての娘。
手の中にすっぽりおさまる大きさの顔。
少しでも爪が当たれば、途端に深い傷がつきそうな、ヒタヒタに湿った頬は、大きな手のひらのくぼみをあてると、ジトッとくっつき、数秒の余白のあと、もったり離れた。

50センチに満たなかった、全身の詳細は、もはやぼやけてしまっているが、手のひらで触れた感覚だけは、なまなましく思い出すことができる。

やはり手は人間の触角のなかで、最もすぐれている部位らしい。

羊水から解放されたばかりの、まんぱん以上に水を含んだ、皮膚のうすい無防備な肌と、私の人差し指一本を包みきれなかった、頼りない5本の指の握力、その先端の繊細な爪の質感さえ、ぼんやり蘇るような気もする。

永遠にその水分を称えるように思われた頬は、
汁もたわわな果物が、収穫して時間がたつと、母木からもらった栄養を忘れ、空気中の水分量になじんでいくように、新生児期が終わるころには、やはり羊水とすごした数カ月が薄れていき、あの湿ったヒタヒタ具合も落ち着いてくる。

映像よりもずっとリアルなこの感覚が、残っていたことに、温まる。

確かに触れていた「その瞬間」の娘を、この手のひらがとらえた変化と合わせて、ふりかえっていきたい。

伸びてきた、きみ。足。

新生児期が終わると、外に連れてでる機会も増えてくる。
ベビーカー移動が多かったが、たまに抱っこ紐を使うときには、自分の腰の位置から左右にちょこんと現れる、小さな足を手のひらで包んでいた。

特に意味をもった行為ではなかったはずだが、気づけば毎回そのようにし、やわいおまんじゅうでも隠すみたいに、ゆるく握った拳の中にしまい込んだ。

強い風やスーパーの冷房から守ったつもりの日もあれば、ママはここですよ、と教えている気持ちもあり、また単純に、そうしていると安心した。
こうして書いてみると、「手をつなぐ」の代替行動だったのかもしれない。
まだ歩けない娘と、一緒におでかけしている気分を高めてくれたのだ。

そうして触れる娘の足は、ふわふわでわずかにヒヤッとし、でも包んでしまえばすぐに温まる素直さがあった。
私はいつも手のひらの真ん中のくぼみに娘のかかとをあてがい、足の指が伸びる方向に自分の手の指を平行させて、足のサイズを確かめた。

2か月頃は第二関節まで届かなかった足底が、みるみる伸びて、4か月には節目を追い越す。
骨の存在をまったく感じず、裏も表も同様の手触りだったモチモチの足は、少しずつ、足の甲のシャープさをにじませた。
指の1本1本も太く厚みが増して、私の指1本の幅に3本おさまっていたものが、気づけば2本になっていた。

ほぼ完全にベビーカー移動になる6か月頃までの「足」を、やはり手のひらが実感を持って覚えている。

なめらかな、きみ。頭。

生まれたては柔らかすぎて、撫でることに不安があった頭皮は、半年までくると頭蓋骨の役割が機能しだして、パカパカしていた大泉門はもう見つからない。

髪の少ない頭皮は、地肌が透けてみえるせいか、ひたいや鼻、さらには大人のそれに比べて緻密でない耳さえも、同じ一枚の皮膚であることを感じさせた。

その頭頂部に手のひらを落とし、慣性に任せて髪に滑らす。
たしかに髪の流れを感じるのに、まったくすべてがなめらかに、摩擦という概念を忘れ去って、優しくまるくすべっていく。
そしてあごの先端が手のひらの最下部に重なるところに終着する。

何度くりかえしても、飽きることのない動作。
まだ世の理など思考する必要もなく、ただただ、大事に愛しく撫でられるために、小さな球体は存在しているのだろうか。

日々撫でていくにしたがって、狭かったおでこも、指の長さほどの横幅が出てきた。
目の外側の部分には、じんわり汗がにじむことも多くなる。
人が笑うときには、小鼻の筋肉も口角とともに引きあがることを、私は娘をじっくり撫でて、初めて知った。

意思をしめすきみ。手。

10ヶ月も後半になると、いよいよ歩行がはじまった。
両手を前に突き出して、おっかなびっくり膝を伸ばしたその先に、私の手のひらを探す娘。

生まれ持った反射運動で、第二関節から指先だけを握っていた新生児は、もういない。
自分が求めれば、当然差し出されると信じて疑わなかったこの手を、指の付け根からギュッと握る。

人差し指と中指が拘束され、倒れないように体重がかかっているとはいえ、全身につたわる力強さに驚かされる。
前のめりに預けられた信頼は、こちらの血流をいくらか制限までして、握られている皮膚が白い。

手のひらに包み込んで隠しきれたはずの手は、まだまだ小さいが、うんと厚みが出て、意思のある動きをみせる。

1歳過ぎ、しっかり握りこんだ2本の指を、行きたい方向に引っ張っていく。
1歳半、親指以外の4本の指をその手はまとめる。
2歳、もう指だけではこころもとなく、大人同士の手つなぎと、変わらない重なり方に進化した。

不安なときは爪が食い込むほどにかたく結んで、
煩わしいときにはするっと抜け出し、
娘の手が主張する気分と野望も、この手のひらが受け止める。

ハッとさせて。花。

2歳をすぎれば、これまでほど急激に身体は成長しない。
おそらく来年の夏も、今着ている服はほとんど着ることができるだろう。

この2年間に私が手のひらで感じた、さまざまな発見は、スローになった成長にも反応することができるのだろうか。

もう寝ているだけの赤ちゃんではない。
親の手が物理的に届く範囲に存在する時間も減り、手のひらに娘を感じる頻度自体が、どんどん少なくなるのだろう。

それは正しく、必要な変化。
でもやはり、少し寂しい。

そんなことを考えながら、2歳すぎの娘をずいぶん久しぶりに抱っこ紐に入れる。雨の中、急ぎの用事ができたのだ。

抱っこ紐自体が重さに歪んでしまいそうだが、雨にぬれては気の毒なので、赤ちゃんの頃にしていたように、大きくなった足を包む。

ハッとした。
もう手のひらからこぼれ出ようかとする、その質量はもちろんのこと、まだ地面を知らなかった足にはなかった「縁取り」が、ぐるっと一周、たしかにある。

1年以上歩いてきて、体重を支えるうちに、足の裏と甲を分ける境界線がはっきりでき、硬質な皮膚組織になっていた。
土踏まずも、しっかりへこんでいる。

これではまるで、大人の足のミニチュアだ。
そして初めて実感する。
そうか、娘も、いつか「大人」になるのだな。

赤ちゃんのまま背が伸びているわけではなく、こうして体のひとつひとつが、大人に近い作りになっていくのだ。

まだ細い髪が増え、太くなり、肌に油気がさし、顔の凹凸が強調され、手足も長く、ふにふにの肉を筋へとかえていく。

しかしその変化は遅い。赤ちゃん時代よりずっとゆっくり変わっていく。
だからきっとまたいつか、ふいに触れた手のひらが、娘の変化をとらえるだろ。

その気づきは、「成長が寂しい」という何もないテーブルに、花瓶をおいて、少しずつ花をいけていくように、私の人生を賑やかな色にしてくれそうだ。

今度はどんな場面で、私をハッとさせてくれるのだろう。
赤ちゃんの頃から変わらない、少し口の開いた寝顔をみていると、こっちの口元まで緩んでしまう。
次なる発見を楽しみにしながら、自分の手のひらに、顔をうずめる。

この手のひらに、きみを刻んで、
この手のひらで、きみを愛す。


記:瀧波和賀

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