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目的と手段

『学問をするとは、目からウロコが落ちること、自分の見方がガラッと変わることです。自分がガラッと変わると、どうなるか。それまでの自分は、いったい何を考えていたんだと思うようになります。』(プレジデントオンライン

プレジデントオンライン

この一文にハッとしました。なるほど学ぶとはまさにそういうことか。学ぶことそのものが目的なのは気づきがあるからなんだ。

私は普段、手段目的になってはいかんと思ってます。なんのためにやるのかという目的意識を持つことでやる意義が出てくる。
例えばマラソンでもゴルフでもタイムやスコアを縮めていくことは主目的なんでしょうか?単純に走ることやゴルフまたはそれを通じて起きるコミュニケーションそのものこそに学びや楽しみがある場合もあるのでは?

仕事上の付き合い(戦略)としての場合を除けばタイムとかスコアは続けるための動機付けでしかない。それを現代社会はとかくわかりやすい数字の結果を求めたため、数字を追うことが正義となりすぎてるように感じてます。

特にマラソンは仕事上必要という場合が少ないのでタイムにこだわりすぎるのは本当に走るの好きなんだろうかと思ってましまう。

学ぶことそのものに意味がある。つまり走ることゴルフをすること、日々の仕事そのものに意味がある。そしてその結果として早くなったり、スコアが良くなったり、仕事ができるようになったり。なので結果を出すために効率や近道を追い求めすぎて挙句、何も楽しめなくなっているような。

子供を持つとか仕事をするとか勉強するとか趣味を持つとかって、義務とか社会貢献とか権利とかっていうよりもそれらをすること自体が喜びを持った目的と思えば良いのでは。まぁ、私も学生時代は学校の勉強は嫌いだったけど学びは好きだったような気がする。

結果として私が常日頃言っている楽しいことを探すのではなくやっていることを楽しむということとの整合性がとれてくる。

そんなこと言われても単純労働の仕事なんて楽しめないよ。生活のために仕事を探すのが精一杯の人もたくさんいるだろう。それでもどこに自分の人生楽しみ方ポイントがあるかを探し続けないといけない。だからこそそのためには新しいことをなんでも試して自分に合うものを探したほうがいいと思う。

それは学問という形を取っていなくても映画でも小説でもスポーツでもゲームでもなんでもいい。試してみて楽しめなければ違うことをやればいいのだ。どこで自分が楽しいのかつまらないのか怒るのか悲しむのかそれら全てで探していけばいい。究極は普段の生活そのものが学びだと言っても良いのでは。大事なのは向き合うことそのもの。非日常の方が向き合いやすいということでエンタメが優れている。

で、新しいことを試す時ってなんとなく勇気がいる。そして継続していくことにも勇気がいる。それはつまり勇気を踏み出すことの連続なのだ。

この養老先生の記事に出会う前にRTしたツイートがこの二つ

コテンラジオの深井龍之介

ビートラックス CEOのブランドン片山ヒル

学ぶことも企業することもつまりは生きることそのもので新しいことにチャレンジし続ける勇気を持つって実は楽しいことなんだよな。

素晴らしい気づきをたくさんもらった朝でした。

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