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#7 ミャンマー、ベンガル湾の日常、ロヒンギャとの出会い(2/2)

(こちらは2/2になります。よろしければ先に1/2をお読みください)

シットウェに滞在中の僕は、次はどこの街に行こうか迷っていました。
僕の滞在していたホテルの受付の女性は英語が堪能で、バイクの手配や街の見どころなど親身になってくれてました。

「次はどこの街に行こうか迷ってるんです」
僕は携帯をいじりながら時間をつぶしていた彼女に話しかけた。

『うーん、そうですね。。とりあえず、北部は危ないからそれ以外ならいいと思うけど...』

シットウェにいると連日Facebookで現地のニュースが飛び込んできました。
正式なニュースではなく、現地の住民が撮影した動画など検閲を受けていない内容。
主なトピックスは政治・軍隊・民族問題などの物騒な内容ばかりでした。

「Facebookとかで流れてくる内容ですね」

『そうそう、外国人が立ち入り禁止になったところもあるし、武装している人たちが多いから行かない方がいいわよ』

「ちなみに、そこ辺りにロヒンギャのキャンプもあるんですか?」
あ、そういえば。という感じでサラッと聞いてみた。

『あるわよ。でも本当に行かない方がいい。数日前にもいろいろあったから』
彼女は動画を見せてくれながら、シットウェ近郊のキャンプは非常に危険なことを教えてくれた。
そのやり取りを聞いていた他のスタッフたちも、顔をしかめて、本当にやめた方がいい。という感じで話していた。

僕が困ったなぁ。という顔をしていると一つの提案をしてくれた。
『ここから北東にミャウーって街があるわ。きれいな街よ』

「ミャウーですか」
画像検索をすると朝もやにそびえたつパゴダの写真が目に入った。

『私は行ったことないけど、ミャウーの近くにもロヒンギャのキャンプがあるらしいわ。シットウェより落ち着いてるっていう噂だけど』

未知なる街、ロヒンギャのキャンプ、魅力的なワードに僕はミャウー行きを決めた。

黄金の都市ミャウー

ミャウーは14世紀から約4世紀に渡ってアラカン王国として栄えた都市で、
当時インド洋の交易拠点として大量の宝石が取引され、ポルトガル人に「黄金の都市」と形容された古都だ。

シットウェからはボートかバスで向かうことができるが、僕が滞在したときはボートがなく、バスのみでの移動でした。
実際、ミャウーはとても綺麗な街で、時間を忘れて滞在してしまいました。
手つかずの自然に囲まれ、遠くに山脈を望む小さな盆地のような場所で、古代都市の遺跡をそのままに、人々は共存しているようでした。

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ミャウーの街はバイクで回れば1時間くらいで収まってしまうような小さな街で、おしゃれなカフェやレストランはほとんどなく、ローカルな生活をしていました。

木造のゲストハウスに滞在していた僕は、朝起きると食堂棟に移動してスタッフたちと一緒に朝ご飯を食べ、子どもたちの通学を見守ります。
いってきまーす。と元気に出ていく子どもたちは、隣の建物に走っていきます。
ちょうど隣が小学校か中学校で、部屋で本を読んでいると、授業が聞こえてきました(笑)

だいたい午前中は、入口の前にあるベンチで本を読みながら、
スタッフの子どもたちが遊んでいるのを見守っていました。
ときどき、ボール遊びしようよー。と誘われたときは一緒になって遊ぶ。
30分くらいでバテる僕は、もうダメ。とベンチに寝転んでいました。

ゲストハウスを切り盛りする女性支配人のご厚意で、バイクを借りることができ、移動には不便を感じず過ごすことができました。

ロヒンギャの村へ

『ミャウー郊外にはロヒンギャのキャンプがあるよ』
ゲストハウスに出入りする近所のおじさんに教えてもらいました。
詳しくは記載しませんが、歩きでは難しい距離です。
僕は、危ないと感じたらすぐに立ち去ること、到着しなくても引き返すこと、そしてジャーナリストに間違えられないようカメラを置いて出発しました。

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到着すると、普通の街と変わらないような佇まいでした。
ただ、ところどころに木製の壁や鉄線が見受けられ、隔離されているような雰囲気も感じました。
僕は街の中に入ると、子どもたちの多さにすごく驚きました。

「君たちの街を見せてもらえるかな?」

子どもたちに伝えると、意図は伝わったのか、こっちに来いと奥に案内してくれました。
子どもたちは一人の男性のところに連れて行ってくれました。
彼は流暢な英語を使い、ジャーナリストが来たらガイドとしてこの街を案内しているらしい。

『ジャーナリストですか?カメラマンですか?』
彼は帳簿みたいなものを手に尋ねてきた。

「ただの旅行者です。ボランティアでもない、少しだけ覗かせてください」
彼にそう伝えると、少し悩んだようだった。

「街を見せてもらわなくていいですよ。話だけでも大丈夫です」
彼らの住居や生活を見るのはすごく興味があったが、なぜか見なくてもいい。こんな中途半端で好奇心で来ている人間が見てはいけない気がした。

『話だけならいいですよ』
彼は、こっちにきて座りなさい。と僕を招き入れた。

それからは彼は、ここでの生活のこと、今のミャンマー政府の対応、軍隊や差別のことなどいろいろな話をしてくれました。
一方からの意見ではあるが、実際の生活レベルを把握することができました。

「子どもたちが多いですね」

『ここには学校がないからね。子どもたちのためにも変わってほしいんだ』

「ミャウーの街の学校は通えないんですか?」

『外の学校には行けない。そもそもここから出てはいけないんだよ』

僕は、自分の環境との違いと、何もできない自分に恥ずかしさを感じ、すぐに立ち去りたくなりました。
中途半端な気持ちで来てはいけなかった。とすごく後悔したのを覚えています。
気づいたら結構な時間がたっていて、暗くなる前にミャウーの街に戻ることにしました。

「いろいろ教えてくれてありがとうございました」

『いいんですよ。ではさようなら』
気休めも、希望的観測な言葉も出すことをためらった僕は、無言でロヒンギャの街を後にした。

青い瞳の僧侶

ロヒンギャの街以来、僕は仕事に専念していました(笑)
ありがたいことに休み明けの納期があり、集中して作業することの方がありがたかったです。

『籠りっぱなしね。ちょっとは外に出た方がいいわよ』
朝食を食べていたら女性支配人に声をかけられた。

「そうですね」
この街に滞在するのもあと数日といったところで、僕はこの生活にいい意味で適応していた。

『街の真ん中に小高い丘があるでしょ?そこからの景色は綺麗だし、運動がてら行って来たら?』
彼女に余計な心配をかけてしまったな。とバツが悪い僕は、彼女の提案に乗ることにした。

ミャウーには大小さまざまな遺跡が残っていました。
その中でも街の真ん中にあるパゴダは、丘の上にあり街を見下ろせる絶好のポイントでした。

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長い階段を上がると、きれいなお寺があり、仏陀が鎮座しています。
外にでると古いバゴダが2つ建っており、そこから街を見渡すことができます。
夕暮れ時に行った僕は、夕飯の支度に追われている街並みを眺めていました。
家々からは白い湯気や火を焚く煙が上がっていて、街が生きていることを実感させてくれました。
そろそろ、この街ともお別れだな。
日本の田舎を思い出させるような牧歌的な雰囲気は、この街から離れる僕の足を重くしました。

帰り道、階段を降りると年配の僧侶が座っていました。
仏教の経典かお布施をお願いしているようで、何気なしに5000チャット(約500円)を壺にいれました。

『ကျေးဇူးတင်ပါတယ် ありがとう』
ふと聞こえてきた日本語に驚いて、僕は話しかけた。

「え、おじいさん日本語喋れるんですか?」
簡単な日本語しかできないらしく、英語で答えてくれた。

『小さい時に日本人と会ってな。それで覚えているんだよ』

「びっくりしました。まさかここで日本語が聞けるなんて」

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年配の僧侶は、日本人との思い出を教えてくれました。
彼はミャウー出身で、彼が10歳くらいの時、多くの日本人がこの街にやってきたこと。そして、現地の人たちにやさしくしてくれたこと。
とりわけ、子どもたちとは一緒に遊んだり、歌を歌ったりしたこと。

『ただ彼らは北へ出発していってな。一人も帰ってこなかったよ』

話の途中で気づきましたが、おそらくインパール作戦に向かう日本軍だったと思います。
こんなところで自分の母国のことを聞けるとは思いもしなかったので、感慨深かったです。

『最後に一緒に歌った歌を今でも覚えてるよ』

『万朶の桜か 襟の色~』
彼は流暢な日本語で歌い始めた彼の歌は、日本の軍歌、歩兵の本領だった。

「おじいさん、いつまでもお元気で」
別れ際、僕はおじいさんにそっと声をかけた。

『君もな。気を付けて帰るんだよ』

ニュースや新聞では”危険”、”武装勢力”という物騒な文字が多いラカイン州。
僕はこの滞在で、何気ない日常を過ごす人々の生活や、想像を絶する生活をする人たちに触れ合うことができた。
彼らはとても不安定で、それでいて均衡のとれた関係の中で生活していて、いつそのバランスが崩れるかわからない不安とも戦っているんだなと感じた。
飛行機から眺めるラカイン州が、どんどん小さくなっていくのを見て、僕は「またこの街に来よう」と決意を胸にした。

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