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「暗い」と言われた私は、アナウンサーになった【テキスト版】



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小学校6年生の2学期だった。
「せんせー、あの子暗いんよー」
クラスのガキ大将的な男子が言った

クラスみんなの顔が一斉にうしろに向いた。
教室の一番うしろに座っていた私は、
急にみんなの視線を感じてハッとする。

え?わたしのこと?

その日、担任のおじさん先生はお休みだった。
隣のクラスの若い先生が自習の様子を見にきたときのことだった。

先生は
教室に入ってくるとすぐ、
ガキ大将男子が言ったその言葉を受けて、
「そーなん?暗くなられんよ」(そうなの?暗くならないでね)
と私に向かって言った。

そこで私がどんな反応をしたのかは覚えていない。

ただ、今でもそのシーンがフラッシュバックする。
傷ついた一方で、
内心「そうだよなー」と納得していた。

ずっと、私は積極的で活発で明るいほうだと思っていた。
転校前の学校では、学級委員をすることもあった。
自分が暗いといわれるなど思いもしなかった。

でも、小学校6年生の1学期にその学校に転校してから、
私はほとんど口をきかなくなっていた。

そこは、転校生は年に1〜2人いるかいないかという田舎の学校だった。
クラスの大半が保育園からずっと一緒という環境だった。
転校生は珍しく、みんな興味津々だ。
私も、休み時間ごとにクラスメイトに囲まれた。

特に、クラスの中でも中心的な存在のAちゃんは、
一番に私のところにやってきた。
そして、とまどいがちな転校生の私に色々教えてくれた。
私も嬉しくて、誘われるままに、Aちゃんと一緒に行動した。
クラブや委員会も一緒のところに入った。

ところがのちに、Aちゃんは
「転校生のくせに生意気」と、
私の悪口を言う中心メンバーになった。

生意気だったのだと思う。

転校初日の1時間目のこと。
「はい、これわかる人?」
と先生が言うと、
私はすぐにピッと左手を挙げた。
まっすぐしっかり耳にくっつくようにして。

転校前の学校では、書きながらでも手を上げられるように
左手を上げることが習慣づけられていた。
答えが間違っていても、
素早く手を上げて発言することが良しとされていた。

だからつい、反応してしまった。

教室は、一瞬で凍りついた。

私以外は誰も手を挙げていなかった。
先生も驚いた顔をしている。

答えがわかっても、
自分から手を挙げて答えると言う習慣はそのクラスにはなかった。

手を挙げずに、先生から指名されて答えるのが当たり前だったのだ。

教室が凍りついたのに気づいても、
勢いよく挙げてしまった手を引っ込められない。
先生も私だけが手を挙げているのに当てないわけにもいかない。
当然ながら当てられて答えた。
「はい、正解ですね。でも、次からは右手を挙げなさい」と言われた。

2時間目からは手を挙げなくなった。
それでも、
「転校生のくせに生意気」の始まりには充分だったと思う。

給食時間になると、校内放送の当番だったAちゃんは、
私を放送室に案内してくれた。
放送当番の子がマイクの前で原稿を読んでいる。

「こぉうちょうせんせーからのお話があります。」

私はそれを聞いて、ぷっ、と吹き出してしまった。

「こぉうちょうせんせーだって〜」と笑う私に、
Aちゃんは嫌な顔をしている。

笑っちゃいけなかったんだと察しても、もう遅い。

しゃべり始めに声がひっくり返ったのだと思ったのだ。
校長先生を「↑こぉ↓うちょーせんせー」と発音することは、
そのときの私にとってはありえなかった。

でも、ありえないのは私だった。

みんな「↑こぉ↓うちょーせんせー」だった。
私だけが違っている。

それまで自分の話している言葉が普通だと思っていた。
まわりと違う、テレビと違うと考えたことはなかった。

でも、その学校では何もかも違う。みんな私と違う。

ちいさな四国の中を対角線上に移動しただけなのに、
イントネーションは真逆になった。
関西イントネーションから、
関東に近いイントネーションの地域への移動だった。

呼びかけられて「何?」と答える。

すると「生意気」と言われる。

関東イントネーションでは「何?」と「な」が高いが、
関西イントネーションでは「↓な↑に?」と、「に」が高くなる。

私が「何?」というつもりで、「何?」というと、
「なぬ?」と反論しているか、怒っているかのように受け取られたのだ。

生意気と思われても仕方ない。

イントネーションだけではなく、方言もわからなかった。

田舎の小学生にとっては、小さな違いでも充分な「排他」の理由になる。
授業中に手を挙げたことも、違う言葉を使うことも。

私は、転校してから数日のうちに、
何をしゃべっても「生意気なんよ」と言われるようになり、
Aちゃんは私の悪口を言い始めた。

「言葉の違い」が「転校生のくせに生意気」を決定的にした。

そこから私は、学校ではほとんど口をきかなくなった。
聞かれたことには最低限の単語で答えるが、自分から話しかけることはなくなった。授業中に当てられてわかっていても「わかりません」と答えた。
目立たないように気をつけた。

自分で意識的にそうしていたわけではない。

言葉をアウトプットすることをやめ、
インプットに集中しようとしていたのかもしれない。

じっと周りの人が使う言葉を観察し、聴いていた。
聴いて、聴いて、自分の中に沁み込ませるように聴いていた。

そのうち、周りの人が使う言葉と家族の言葉と、
テレビの中で使われる言葉の違いがはっきりとわかるようになってきた。
そして、それぞれを口真似できるようになってきた。

そのうちに、暗いと言われていた私にも友達ができた。
家も同じ方向のマキちゃんは、
生意気という言葉を私に投げつけることなく、一緒にいてくれた。

ある日、マキちゃんと一緒に学校から帰っていたときのことだった。
突然「あ、もう話せるかも」という感覚が降りてきた。

「あの家に牛がおるんよ。知っちょる〜?」

とマキちゃんが私に聞いてきた。
それまでなら「うん」と答えて済ませるところ、
ドキドキしながら口に出してみた。

「知っちょる〜知っちょる〜」

私がその土地の方言を初めてアウトプットした瞬間だった。

すごく気恥ずかしくて、お腹がむずむずした。

それからは、方言の切り替えスイッチは自動で発動するようになった。
家では関西イントネーションの讃岐弁を使い、
学校では関東イントネーションがベースの方言を使う。

自分が使ってきた言葉が標準語じゃないと気づいたのも、
言葉にはいろんなイントネーションがあって、方言があると気づいたのも、
テレビの中の人が使っている言葉もいろいろあると気づいたのも、
このことがきっかけだった。

そしてそれらを使い分けられるようになったのも、
あのとき話し言葉を聴くことに集中していたからだ。

今、あらためて思い出すと、
あの時は警戒心と緊張感をもって聴くことに集中していた。

「暗い」といわれたのも無理はない。

「あの子暗いんよー」と言われた小学6年生の2学期は、
徹底して話し方を観察している時期だった。

私はアナウンサーになった。
地方育ちでも、標準語でニュースを読むことにはほとんど苦労しなかった。

あの経験で培われた耳は、今の私の支えとなっている。

書いてみたこと、発信してみたこと、 それが少しでもどこかで誰かの「なにか」になるならばありがたい限りです。