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体育が嫌いだった。

小学生の頃からずっと体育の授業が嫌だった。

なにしろ、とにかく走るのが遅かった。

小学校5年生のとき、クラスで2番目に遅かった。
そのとき50m走の記録が11秒だったのを今でも覚えている。

だから、私はずっと「運動神経が悪い」のだと思っていた。

ところが、大人になってから

「運動神経イイね!」

と言われるのだ。

最初に「運動神経イイね!」と言われたのは
自動車教習所。

厳しいことで有名な教官が担当だった。

はじめての路上教習に出たとき、

「運動神経イイね。」
「クラッチのつなぎ方、ギアチェンジのタイミングもいい」

と褒められたので、驚いた。

私のことを「運動神経がいい」と評価した人は、
この教官が初めてだったと思う。

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大学では、音楽(声楽)を専攻していたが、
副科として何か楽器をやらなければならなかった。

3回生から音楽専攻生によるオーケストラを編成する関係上
人数の関係でヴァイオリンをとらざるを得なかった。

大学生になってはじめる弦楽器はなかなか過酷だ。

楽器の構え方、弓の持ち方、から始める。
それでも2年後には、
学生オーケストラの中に入って交響曲を弾かなくてはならない。

指導者によって方針は違ったが、
私がレッスンを受けていた指導者は、
曲を弾けるようになるより
音色を整えること
を重要視していた。

ヴァイオリンの音色は、右手のテクニックが大きい。
いかに自然に弓を持ち、自然に響かせるか。

体の重心をしっかり感じながら、
ヴァイオリンをいかに楽に構え、
弓をいかに楽に持ち、
楽器を鳴らしていくか。

指導者の言う通りにイメージをし、
弓を走らせる。

一瞬で音が変わるのが自分でわかって面白い。

「この先生、音の魔法使いみたいだな〜」

などと思っていると、

「君、運動神経イイね。うまくなりそうだ!」

と言われたのだ。

驚きすぎて、目が点になった。

私が?運動神経がいい?

「運動神経が悪い」はずの私に
「運動神経がイイね」という。

どういうこと?

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中学時代のある体育の先生のことを思い出した。
姓しか覚えてないが、
池田先生という大学を出たばかりの女の先生だった。

体育の授業の恒例で、毎年学年の初めには
「運動能力テスト」が行われ、級が判定される。

私は毎年「級外」だった。

記憶によれば9級くらいまで段階があったが、
級の中に入れないほどのレベルだった。

ところが、池田先生は「運動能力テスト」のとき、
今までの先生とは違うことをした。

ただテストをするのではなく、
それぞれの項目(競技)のやり方を教えてくれたのだ。

走り幅跳びは、助走をどう生かすのか、どういうリズムで飛ぶのか、
ソフトボール投げは、腕をどう使うのか、どういうイメージをするのか、
など、測定する前に教えてくれたのだ。

その年、
私は初めて「級」の中に入った。

「8級」だったと思う。

運動のできる子は、2級や3級をとっている中で
8級なんてなんの自慢にもならないが、
小学生の頃からずっと「級外」だった私は、本当に嬉しかった。

「やり方」を教えらもらえたら、
私も平均的なレベルには達するのかもしれない。

もしかしたら、
「運動神経」は良いけど、やり方がわからないだけかもしれない。

それは、勘の良し悪しなかもしれない。

私は運動にたいして

「勘が良くない」だけだったのではないか、と思った。

私は、人が運動しているのを見て、
同じように動いてごらんと言われても動けない。

ダンスなどが良い例だ。
人が踊っているのを見ても真似できない。

動きをゆっくりにしてもらって、
「いち、にー、さん、しー」と
手足の動かし方を教えてもらうと、ようやくできる。

勘が悪いので「見よう見まね」ができないのだ。

でも、
「やり方」さえ最初に教えてもらえば、できた。

級外の私も8級の点が取れたじゃないか。

人にはそれぞれの勘の良いもの、勘の良くないものがある。

私は、運動に関する勘は悪かった。
ほとんどの人が見よう見まねで動いているのに、動けない。

コンプレックスばかり育ち「体育が嫌い」になった。

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一方で、音楽に関する勘は良かった。
歌なら、すぐに歌える。
音感もある。
相手の音を聞きながらバランスよく合唱、合奏することも好きだった。

また「音読」の勘も良かった。
国語の時間に発表するのは嬉しかった。

図画工作は嫌いじゃなかったが、
見よう見まねは難しく、構図など、どう描けば良いのか分からなかった。
「図工」の勘は良くもなく悪くもなくというところだろうか。

体育、音楽、美術など、
実技教科は、基礎的な「やり方」を教えず、
「はい、やってみよう」になることが多い。
(音読もそうだ)

その分野の勘が良く、見よう見まねでできる子は良いが、
はじめの一歩をどう踏み出してよいか分からない子には酷な科目である。

それが不必要なコンプレックスにつながる。

中学の時に出会った池田先生のように
はじめの一歩の踏み出し方を教えてくれると、結果が変わる。

結果が変わると、その後の好き嫌いも変わる。

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先日、イベント司会の仕事で、
陸上の朝原宣治さんにお会いした。

朝原宣治さんの「かけっこ教室」が行われたのだ。

早く走る人は、どうやって走っているのか。
左の足が地面に着いた時、右の足はどこにあるのか、
それはなぜなのか、
そして、どうしたらそういう走り方ができるようになるのか。
そのためにどういう練習をするのか、
オリンピック選手たちがどういう練習をしているのか、etc.

そうだったのか!

50m走を11秒で走っていた5年生の頃、
走り方のはじめの一歩を知れていたなら、
体育に関して勘が悪い私でも
「体育が嫌い」にならなかったかもしれない。

「好き」にならなくても
「普通」でいられたかもしれない。

机に座ってするお勉強は、
「知らないことを習う」という前提で、
はじめの一歩から教えてくれる。(ことが多い)

体育、音楽、図画工作は
何も教えなくてもある程度できてしまう子も多い。
だから、できないことを前提として、
はじめの一歩から教えるということは
現実的ではないのかもしれない。

あのとき教えてくれていたら、とも思う気持ちもあるけれど、
子どもの頃から「苦手、嫌い」と思っていたことについて、
大人になってから「はじめの一歩」を知るのも
意外と楽しい。

書いてみたこと、発信してみたこと、 それが少しでもどこかで誰かの「なにか」になるならばありがたい限りです。